お話をしていただいた方は、鹿児島県曽於市 岩川出身の前田孝子さんです。
前田さんは、若い頃、岩川基地を拠点に活動していた「芙蓉部隊」のことを知り、その部隊の指揮官、美濃部少佐が特攻に異議を唱えた人というのを聞いて、とても衝撃を受けたそうです。
2014年10月、美濃部少佐や芙蓉部隊のことがほとんど知られていない現状を憂いて、『芙蓉之塔ものがたり』という冊子を自費出版されました。
前田孝子さんにお話をしていただいた内容と、情報季刊誌「わおん」に寄稿された文章、「芙蓉之塔ものがたり」の冊子の中から、下記内容はまとめています。
美濃部正少佐と芙蓉部隊
美濃部正少佐とは、太平洋戦争末期の昭和20年1月に、静岡県藤枝基地で再編された夜間戦闘機部隊の指揮官です。
富士山の別名(芙蓉峰)から芙蓉部隊と名付け、若干29歳の若さでありながら、千人近くの隊員を統率することになりました。
敗戦の色濃くなった昭和20年2月に、千葉県木更津の海軍航空基地で作戦会議が開かれました。
若輩の美濃部少佐も、末席に座っていました。
緊張感の漂う会議で発表された内容は、練習機や練習生までつぎ込む無謀な「総特攻作戦」でありました。
今まで数多い外地での夜戦部隊経験から、正攻法で戦うべく、日々過酷な訓練に取り組んできた芙蓉部隊にとって、「十死零生」の特攻作戦などとても考えられないことでした。
彼は、ついに立ち上がり、「総特攻と声高に唱える前に創意工夫や科学的思考、徹底した厳しい訓練などやるべきことがいくらでもあります」と主張しました。
空虚で無責任な精神論だけでは命を賭けて、飛び立つことはできないと公然と異議を申し立てたのでした。
「抗命罪の覚悟の発言だった」と、後に手記に記しています。
正攻法で戦う信念を最後まで曲げず、限界に挑み続けた指揮官は、この日、カンカンになって藤枝基地に帰ってきました。
そして、全隊員を集めると、「俺は貴様らを特攻では絶対殺さん!」とはっきり言ったそうです。
「十死零生」の特攻を簡単に打ち出す上層部に対しての、怒りや不満であったに違いありません。
隊員を出撃させる時にも、
「必ず生きて還って来い、戦うために」と送り出したそうです。
「なんと凄いことを言う指揮官なんだ」と隊員が驚くのも無理はないご時世だったそうです。
芙蓉部隊 鹿屋基地 そして、岩川基地へ
昭和20年3月末、沖縄防衛のために静岡県藤枝基地より、鹿屋基地へ進出。
芙蓉部隊が夜の攻撃を行うためには、混み合う鹿屋基地とは別に秘密基地が必要と考え、指揮官はいくつかの飛行場を見て回った結果、岩川飛行場を使用することに決めました。
20年5月、岩川海軍航空基地に沖縄防衛のため進出した芙蓉部隊は、敵に飛行場だと気づかれないようにいろいろな工夫をしました。
滑走路には、青々とした刈草を敷いて、数日ごとに取り換える。ところどころに、移動式カヤブキ屋根の家四棟と樹木十数本を置き、牛十頭を放牧して、牧場に見せかける。飛行機は雑木林に隠し、飛ばない飛行機は、ガソリンを抜く、など。
日没後は、それらの全部を取り除き、飛行場へ変わるのでした。
高射砲部隊にも基地の存在がばれるので、撃たないようにと説得をしました。
そのため、地元の人も芙蓉部隊の実態は、ほとんど知りませんでした。
お蔭で、基地の存在は、最後までアメリカ軍に知られることはなかったのです。
終戦 芙蓉部隊の解散
昭和20年8月15日 美濃部指揮官は、参謀長から日本が無条件降伏を受け入れたことを知らされました。
岩川基地にもどり、約130名の隊員を集めて、「今後すべての戦闘行為を、停止する」と、命令をだしました。こげつくような暑い夏の日のことだったそうです。
7日後の21日、隊員たちに休暇命令が出されました。しかし、隊員の中には、
「今後、どうして生きていくべきかわからない。この基地に残してください」と、泣いて訴える人もいました。
美濃部指揮官は、
「3年待って日本の行方を見定めよう。どうしても生きる意味がなければ、それからでも遅くはない。鳥は、嬉しい時も悲しい時も古巣へ帰るものだ。ともかく父母のもとへ帰れ」
と、優しく言い聞かせ、納得させたのでした。
美濃部少佐、岩川基地を去る
昭和20年、10月7日、戦後の残務処理で残っていた美濃部少佐もその日、岩川を去りました。
美濃部少佐の立ち合いの中で、岩川基地はアメリカ軍の管理の下となりました。
芙蓉之塔の建立
終戦から33年が過ぎ、昭和53年に、芙蓉部隊の隊員であり、戦後 岩川周辺の開拓事業に参加して、その後大隅町住民になった平松光雄さんや元隊員、戦没者の家族、大隅町の人々の協力で、岩川飛行場跡に、戦没者慰霊碑「芙蓉之塔」が建てられました。
それ以来、毎年11月11日に、慰霊祭を行っています。
その後
『芙蓉部隊』を顕彰する住民団体「岩川芙蓉会」に所属している前田さんは、部隊の記憶を後世に
残していくため、部隊に関連する証言収集活動を継続的におこなっています。
今、力を入れて取り組んでおられる活動は、芙蓉部隊戦没者の方々の遺影収集です。
「亡くなっていかれた方々の生きた証しを残してあげたい」と、地道に集めてこられた遺影とともに、遺族の方々から寄せられた思い出や証言を、すべて曽於市に寄贈し、市埋蔵文化財センター内の資料コーナーで公開展示されています。
最終的な夢
20217年7月 ジャーナリストの境克彦さんが、『合理的精神と戦略的思考を持った不屈の指揮官、美濃部正の初の評伝 「特攻セズ」』出版されました。
芙蓉部隊と美濃部正の伝承活動に、長年取り組んできた岩川芙蓉会の夢を叶えてくれた本でした。
欲を言えば、「特攻セズ」を映画に・・・・というのが、最終的な夢です。
2021年3月12日 南日本新聞より
感想
前田さんは、世界(米英中心)と芙蓉部隊の動きを、対比させた歴史年表を準備され、その資料をもとに話を進めていかれました。
その年表を見ると、軍関係者が岩川飛行場建設のために現地調査に来たのが、昭和18年の秋、翌19年5月には、飛行場予定地となる土地所有者300人を集め、軍用地になることを言い渡されて「土地売渡書類」に捺印させられる、と書いてあります。
土地を失った人々(国民)は、その後どのようにして食べて、生きていかれたのでしょうか?
また、軍が「特攻作戦」という命を軽視する作戦を実行していこうとする組織の中で、自分の部下たち(国民)の命を守ろうとした美濃部正少佐の行動は、軍の幹部からは、国を守る、ということに反する行為だと、捉えられたのだと思います。
一体、国を守る、ということは、具体的にはどういうことなのか、ということを考えなくてはいけないと思います。
戦争体験者の自宅に聞き取りに行く時、前田さんのご主人がインタビュアーとなって話を伺い、孝子さんがビデオ撮影をする、という活動もされています。
孝子さんは、ビデオ撮影、編集技術をお持ちで、長時間の聞き取り撮影から、40~50分位のDVDに編集する作業をされます。
その編集も、BGMの挿入や見ている人が理解しやすいように字幕や補足の資料などをつけるなど、大変素晴らしい映像記録となっています。
直接、戦争体験を聞くことが出来なくなっていくこれから、歴史の財産になるものです。
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