報告:②「満洲」をどう捉えるべきか~引揚げ2世の証言を通して 張家口の記憶~ 5月24日(土)

2025年

講師:疋田京子さん 鹿児島県立大学名誉教授

今回、疋田京子さんの話を聞きながら感じたことは、疋田さん自身が米満さんと同時代を生きていたような、あるいはとても親しい親戚の一人ではないかと思えるほどに、米満さんが過ごした満州の様子を語ってくださったことです。

“ああ、これが語り継いでいく、ということなのかもしれない”と感じた一瞬でした。

それは、米満さんが書かれた詩やエッセイを読み、その背景を知り、それについての対話を米満さんと繰り返す中で、米満さんの眠っていた記憶が呼び覚まされ、その記憶を丁寧に記録した結果なのだと思いました。

疋田さん自身も、「日本の加害責任とか、被害責任という軸ではなくて、当時人々はどんな生活をしていたんだろう、どんな経験をしたんだろう、ということが知りたくて、それをそこから確認していきたい、そういう気持ちです。」と語られていました。

このような営みを多くの人が受け継いでいくように努めたならば、過去の戦争体験を含め、先人の体験を我が身に引き寄せて感じていけるのではないかと思っています。
(以下、疋田京子さんのお話より要約・末尾に当日配布資料を添付してあります。)

第二回「満洲」をどう捉えるか

戦争を語り 自分の過去 両親とのかかわりの物語
現在から過去を振り返った時に立ち現れてくる過去の姿
両親の過去を私がどのように捉え、引き継いでいるのか 

 山崎哲(2024)「「過ぎ去らない過去」を手繰り寄せる」『日本オーラルヒストリー研究Vol.20』 

米満淳子さんの詩とエッセイを通して

米満淳子さん

・1931年8月 奉天で生まれる。37年~41年張家口。終戦10日前に奉天から大連へ。敗戦時14歳。1947年3月大連から家族全員で鹿児島に引き揚げ。第二高女(現・甲南高校)に編入。 (詳細は添付資料を参照)

米満さんの生まれた一カ月後に、満州事変が勃発。後年、父親が「爆音がする度、小さな体を震わせて泣いていた」と話してくれた。

 満州事変は、1931年9月18日、奉天(現在の瀋陽)郊外、柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破した事件ですが、きっと鉄道爆破だけではなく、その後銃撃戦などもあり、その銃声が聞こえてきて、赤ちゃんだった米満さんは泣いていたそうです。その話を聞いた時、「私はそんな歴史的な時代に生まれたんだ。」ということをすごく感じたそうです。

米満さんの特徴的なところは、父親の仕事の都合で(満鉄勤務ではあったが、能力を買われて満鉄の関連会社などにも勤めていた)満州内を転々としているところです。

1937年頃、米満さんの父親は、張家口に日本人のための病院を建設するために、事務方として配属されたようです、当時の地図をみると、張家口は蒙古連合自治政府の方に入っていたようです。

実は、その土地は中華民国でもなく、満州国でもなく、傀儡政権であった蒙古連合自治政府内だったということになります。すぐ近くに万里の長城があり、馬がたくさんいる大平原で、周囲の山は緑の少ない岩石がむき出しの頂上が延々と続いていてのどかな町を見守っているという風な感じです。時には、万里の長城で弟さんと遊んでいたそうです。

米満さんにとって、手つかずの自然は、恵に溢れていて、文明に毒されていない、移住者にはくつろぎと平和を与えてくれる町だったというふうにエッセイに書いています。

町の要所には、日本軍の歩哨が立ち、警備に当たっている、ここでは、反日的な話題というのは耳にした記憶は全くない。そういった中国人だけが住む町に初めて日本人が入って最初に住んだ家は、土でできた家で、屋根のところにペンペン草が生えているような家。それが逆に面白くて、弟とキャッキャッと騒いでいたと。米満さんが住んでいた5年間に、日本人がどんどん増えていく。日本人国民学校というのがあり、そこに通う時は、ヤンチョという、馬車みたいなものに乗って、それを引いている李さんという中国の人と慣れてきたらだんだん中国語で会話をしていたとか。

その李さんの母親がある日怒鳴り込んできて、「金をよこせ」と父親に言う。その母親はアヘン中毒で、それを買うためのお金が欲しくて、息子の働いたお金をもらいに来ると。またその母親が纏足(てんそく)で、足が幼児のように小さくて、よちよち歩くと。

また、小学校の学芸発表会の時に、来賓として「愛新覚羅溥儀」や蒙古連合自治政府の主席「徳王」も来ていたと。すごく正装してきていて、同級生と「モンゴルの王様なんだって。」と話していた、ということでした。

米満さんは、纏足の人や当時流行していたアヘン中毒の人、満州国皇帝溥儀や蒙古連合自治政府主席徳王を見ている、ということなのです。

また、雨が少ない土地だったため、夏に集中的に降る雨で、自分の家の前の道路が川と化して、そこをあひるや豚などいろんなものがどんどん流されていく、そういう状況もあったようです。

また、蒙古風というのもあったらしく、大きな竜巻みたいなものが起こり、いろんなものを吹き飛ばして、ヤギとか飛んでいった、こともあったそうです。

1942年の小学校の文集がありますが、これが2602年とかいてあります。紀元節です。

アジア太平洋戦争が始まった翌年ですが、文集の中に「太平洋戦争」という特集がありまして、当時教員によってどういうふうに教えられ、子供たちがそれをどういうふうに認識していたか、というのがよくわかる文集です。

要は、中国は日本のいう事を聞かないから、こんなに戦争が長引いてしまっているんだ。その原因というのは、アメリカが物資を、経済的な援助を中国にしているからであり、だから立ち上がったんだと。日本は明治維新から近代国家になったのは、本当に努力したおかげなんだ、だから絶対勝てる、という話を子供たちが生き生きと書いていて、自分たちにできることは、一生懸命勉強したり、家の手伝いをしたりして、立派な人間になることです、立派な日本人になることです、と書いてあるんです。

その中で米満さんがどういう作文を書いていたかというと、自分が飼っていた猫の話なんです。窓からちょっと外を見ていると、三毛猫がやってきた、昔猫を飼っていたことがある。それは、ネズミが多いので、猫を飼っていた、その猫の可愛い様子が書いてあるんです。

ネズミがいなくなってよかったんだけれども、病気になってしまって、そうしたら中国人の李さんが、どこかに連れて行ってしまった。あとで聞いたら、もう死んじゃった、というのを中国語で教えてくれた、みたいな話なんです。

米満さんは、学校で教えられるものが気持ちに残る、というよりも、自分で見たり、聞いたり、感動したり、したというものが自分の血肉になっているということです。

満鉄関係の方というのは、日本人が日本人街の中で日本人だけで暮らすという感じであまり外国にいるという感じを、日常生活ではあまり感じなかったらしいです。

米満さんは、張家口や2回目の奉天に引っ越した時は満鉄の付属地という場所で、日本人ばかりがいるところではなくて、中国人が多く住むところだったらしいです。

そういう中国人街で日本人が住むという時には、すごい高い壁があって、隣に誰が住んでいるのか、誰がどういう人が住んでいるのか、話したこともないっていうような、そういう生活環境だったらしいんですが、学校に行く時はその場所を出て、中国人が住んでいるところを通って学校に行かなければならない。その時に途中、中国人の子供から、「日本へ帰れ」といじめられたりすることがあったそうです。

だから、家に帰ると、家の中で本を読むとか、弟と遊ぶとか。日常友達と外で遊ぶよりも、家の中で本を読むほうが、とても気持ちが楽になるような、ほっとするような、それが満州の記憶としてもあるようです。

張家口に住んでいた時は、弟さんと万里の長城で遊んでいた、と言われていました。

1945年6月か7月、奉天にいた時、40歳を過ぎた父親に召集令状が来ました。大連の海軍武官府への配属とのこと。そこは外務省の管轄で、父親はロシア語ができたのでそこへ配属だったのではないかと。その後、父親が出征した後の奉天の小学校では、軍関係の子供というのは、殆ど出て来なくなっていて、それを母親に話したところ、すぐに夫のいる大連に行こう、ということで大連に向かうことになったそうです。米満さん達が住んでいたところは、中国人街の中にあったので、中国人の反日感情がすごく強かったらしく、不穏な空気も感じていた母親はとても心配になったらしいです。

その上、奉天駅はものすごい大混乱になっており、中国人が「日本は負けるよ」と言うのを聞くものですから、母親は本当に父親一人が頼りだったので、大連に着いたときは、号泣したそうです。その10日後に敗戦だったということです。

米満さんは、春とか夏とか冬とかとても寒い冬とかになると、満州の記憶が呼び覚まされるということがあるそうです。

8月の下旬に大連にもソ連が侵攻してきている様子をエッセイに書いています。

日本が敗戦していから大連で働いていた人たちは、みんな無職になり、すごい速さでソ連兵の噂が入ってくる。「だれそれさんのうちがやられたらしいわよ。」というような噂を聞くと、みんな警戒する。結構昼間はソ連兵もある程度の統率がとれていても、夜になると狼藉をはたらくという状況だったらしく、夜はすごく怖くて、ソ連兵による女狩りとかということを言われていたそうです。

彼女のお父さんは、家に帰ってくる直前に中国人から毛皮のコートや時計、全部身ぐるみはがされたそうです。しかし、命が残っただけでもいい、というそんな感じの生活だったそうです。

奉天から大連に移動してきたことのことが書かれているのですけれども、その中でも怖かったものとして、社宅に住んでいるお姉さんが家にやってきて、なんか下のドアの鍵を誰かがガチャガチャやっている!あのソ連兵に違いないっていうようなことを。だから隠れ部屋みたいになっている部屋に10人ぐらいが入ってずっと隠れていたという、そういうことを書いているのです。

父親はロシア語が話せたので、そのソ連兵とうまく交渉をして、「いや、うちには今誰もいない」「多分あっちに行っているみたい」なことで、ソ連兵を外に連れ出していったのです。その部屋の中では、弟は眠っているし、もし、声でも出してきたらと思うと、もう全身が凍るような・・・。そして、父親が出ていって、それでもまだ出ていけないで、またソ連兵が帰ってきて報復があるかもしれないと。

結局、父親のおかげで助かるのですが、ほっとしたその後のことは、もう全く覚えていない、思い出せない、というようなことを、エッセイの中に書いています。だから、家族全員1人もかけることなく、確かに日本に帰ってきてはいるのですが、そういう思いもしているということです。

大連では敗戦後半年くらいから、治安が少しづつ落ち着いてきて、日本人の中にも安全に日本に帰らなければ、ということで、自主的に組織をつくって、ソ連との交渉をやり始めた人々もいたらしいです。参考文献に挙げている、石堂清倫さんという人は、大連での日本人の引き揚げに大変な力を尽くした人です。

日本へ引き上げて来て、鹿児島市郊外の郡山という土地に住むのですが、米満さんは日本の国定教科書の中に描かれている日本の風景「小川がきれい」「月見をする時にはススキと団子」「緑の山」などに憧れがあったらしいです。なぜかというと、満州ではコンクリートの建物で、蒙古風というらしいのですが、すごい風が吹いたり、ほこりがまったりしてある意味、汚かったらしいです。なので、郡山に住んで、国定教科書で見た田園風景にものすごくワクワクして過ごしていたようです。

満州から持ち帰って荷物を売り食いしていったり、お弁当はふかし芋だったり、という生活を前向きに捉えています。

米満さんがソ連兵に対する怖い思い出を書きつつ、もう一つの側面というものを書いてあるのがあります。それは、ある寒い冬の雪の季節に、寝込んでいると、窓から“ざっくざっく”というソ連軍の行進の音が聞こえてくると。同時に、その中からとても綺麗なハーモニーも聞こえてくると。それはロシア民謡で、それを聞きながら、音楽の歌とか好きになり、四列縦隊の行進というのは素晴らしいハーモニーで、それを心待ちにするようになるわけです。それが、ある時、ぷっ、と切れる。その時にソ連兵が撤退していったという事らしいです。

もう一つは、また風邪をひいて、家にいて窓から外を見るぐらいしかない時に、ソ連兵が氷でつるん、と滑って転んだ、と。それを見ていたソ連兵が見て笑ったと。その様子が、非常に無邪気な少年のように思えて。

米満さんの記憶の中には、女子供に暴力を振るったり、凌辱したりする恐いイメージと同時に、無邪気な少年のような、そしてとても美しいメロディを奏でる、そういったロシア人の記憶もあるわけです。

また、思い出の記憶として、奉天の小学校を卒業して、女学校に入った時に、制服を見せにいこうと、同級生と小学校へ行ったそうです。

担任だった青木先生は、東北出身でなまりがあり、すごくがに股で、遠くから見ても青木先生だと分かるような風貌の方だった。そして、ちょっと怖かった。

彼女としては怖くてなかなかすぐ打ち解けるという感じではなかったらしいです。ただ、卒業してから青木先生のところへ挨拶に行った時に、先生がすごく忙しそうにしていて、びっくりしたようにして顔を上げ、その顔がちょっと赤くなっていた。

その先生が、「ああ、よく来たね」と。そして、「先生はね、今日でこの学校ともお別れだ。戦争に行くんだ、お国のために戦ってくるよ。」っと言われた。それでなんか忙しそうにしてたんだっていうふうに思った、と。

彼女としては何とも言えなかったで、机の上の深紅のダリアの花まで、こう寂しく見えて、ダリアばっかり見てたら、先生がそのダリアを彼女に渡してくれたらしいんです。そして、それまで触ったこともないような距離のある先生だったんだけど、頭にこう手を置いて、撫でて「元気で勉強するんだよ。先生も頑張るからな。」というふうに、久しぶりに聞くなまりのある一言を彼女が聞いた。

それがもうずっと残ってるんです、と。先生からかすかにあのお酒のにおいもしていた。

最後に、米満さんは、ご自分のことを、「満州人」と言われています。ご自分としては、若い頃は、○○主義者みたいな思想を持っている人と結婚して、民主的な国家を目指すような運動をする、なんて思っていたけど、気が付いてみると、非常に平凡な生活をしてきたんだなぁ、と。
でも、一生懸命生きてこられたんです。その中でもうそ、というようなことも書かれています。満州の体験、それをどういうふうに振り返っていけるかという話でした。

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コメント

  1. 瀬下三留 より:

    疋田先生の満州考察は、自身も述べておられるように「日本に加害責任、被害責任という軸」ではなくその時代にそこにあった事実をそのまま、証言に基づいて表してあります。
    読んだ我々は、その中から学ぶものが多いです。

  2. 春光 より:

    ありがとうございます。そのように感じていただけてとても嬉しいです。
    今回の米満さんは、詩やエッセイを書かれる方という点で、とても客観的にご自分自身を捉え、時代社会にに盲目的に巻き込まれていないように感じました。

    やはり、そこには本を読む、思索する、という営みが常にあるからなのかぁと思いました。
    また、米満さんから直接お話を聞ける日を願っています。