感想:「語り継ぐことの大切さを語る」10月12日(土)②

2024年

山下幹雄さんの講和後、参加者が述べられた感想(抜粋)をまとめました。
数年後、このブログを読む縁に遭った人々が、2024年を生きていた私たちがどのように戦争、平和について考えていたかを知ってもらえるのではないかと思います。

参加者 感想

●山下幹雄さんのお話の中に被爆者の話も出ましたが、鹿屋市にも被爆者の人はたくさんいる。それは、女学校時代に勤労動員で長崎に行かされた学生が被爆をしている。そして、原爆で亡くなった友人のお骨を持ち帰り、家族に渡した人もいる。しかし、その人も一週間位したら亡くなった、という話を聞いている。そういう話を皆、山下幹雄さんと同じ年代の人たちは知っているので、語り継いでいってほしい。

●鴨池・県庁付近に住んでいる。鴨池小学校の裏に記念碑が立っている。それは、昭和40年代にPTAが建て、「平和を願って」と刻まれている。鴨池小学校は元海軍航空隊の基地だった場所であるが、そのことが語り継がれていない。自分も含めその記念碑が持つ意味を地元でわかってほしいと思い、今後何かをしたいと思っている。

●今朝、香港が言論統制を受けているテレビ番組を見た。言いたいことが言えなくなる、その状態がとても怖いぁ、悲しいなぁと思った。

質問「幹雄さんの10代頃もそんなことがあったんですよね。でも、戦争が終わった後に変わったんですよね。その時はビックリされました?」

幹雄さん答え:「正直言って、先生たちが豹変したと私は思いました。終戦と同時に、教科書で戦争に関係することは黒塗りですよ。墨で塗って使えないようになりました。あとは、“教え子を戦争にやるな!”と。それまでは、教え子に戦争に行け、行け、と言っていたのに、今度は、戦争に行くな、と。同じ先生が言う言葉ですかね。でも、後のほうが本当なんですよね。前の方が国から強制されたから、そう言ったことであって。先生たちが豹変したのではなくて、時代の流れでそうなったんだと思っています。」

●私は昭和26年生まれで、戦争のことは何も知らない。だからこそ、知りたいと思い、こうして来ている。私は食を仕事にしてきた。なので、戦時中何を食べていたのかな、と思って再現してみた。かぼちゃのつる、芋蔓、自分で実際手に入れて、料理をして食べてみた。かぼちゃのつるは美味しかったが、芋蔓はちょっと・・でした。ふすま、も探したが、手に入らなかった。城山登山で一緒になる年配の男性に、戦時中食べていたもの何か聞いたら、「思い出したくない」と一言だった。米一粒もつくったことのない豊かな時代を生きている私たちは、戦時中を生きた人々が何を食べていたのか知る必要があると私は思っている。

●私も昭和26年生まれで、語り継ぐものは何もないが、飲食店を営む息子のお店で働いている若い人たちに知ってほしいと思って、「戦争を語り継ぐ集い」の案内文を書いて、貼った。これからも若い人が関心をもってもらえるようなことをしていきたい。

●昭和25年生まれですが、小さい頃に戦争に行った人の話をよく聞いていた。ずっと何で戦争を始めたんだろう、と思っていた。今日、幹雄さんの話を聞いてよくわかった。満州事変、盧溝橋事件など、始めたきっかけがあいまいなようで、戦後の反省もできていないような気がする。戦争はしてはいけない、戦争はいかん、と思うが、このような会に出ることでその思いをまた新鮮に思い起せる。小さいことでも精一杯頑張ってやっていきたいと思う。

●来年の6月21・22日の両日宝山ホールで、「戦争の遺物・遺品展」と「平和を象徴するアート作品展」を同時開催します。今日、参加者から戦時中発行された債券を譲り受けました。このような当時の品を見ると、その時の人の思いや状況を知ることができる。この現物は、伝聞とか言い間違いがない。

●戦争体験者の話を実際に聞くことは、日本に生れた私たちが忘れてはいけないことだと思う。機会があれば、と思って今日も来た。みんなで「戦争はダメだよね」と云い続けていかないといけないと思う。

●学校で戦争の不都合なことを教えられてこなかった。だから、大人になって、親たちが苦労した戦争の時代のことを聞きに来ている。もっと、教育の現場で教えることができないのかなと思う。教育現場で平和教育、というものをしようとするとよく思われない。

若い人たちが平和活動をしていることはすごいと思う。でも、なんで戦争になってしまったかということをきちんと教えていかないといけない。だから、隣の国とも仲良くなれない。
ユダヤ人を救った杉原千畝さんと同じように、根井三郎さんというウラジオストックの日本総領事代理だった人がいたことが最近明らかになった。同じ郷土なので、興味を持ち最近調べ始めている。

●私の親は大正生まれで、戦争に行った世代。戦争によって起こる不幸、その歴史を調べている。戦争をしてはいかん、と思っているが、では戦争にならないようにするにはどうしたらいいんだろうかと思うんですが、する側とされる側がある。

今年の8月に2022年のノーベル平和賞団体の一つ、ウクライナの人権団体代表にインタビューをしている番組を見た。「市民を守る方法は、唯一「軍」しかない。平和な方法で侵攻を止められなかった。プーチンやロシアの軍部を訴追するという歴史の前例を作らなければならない。将来の戦争を防ぐためには、現在の戦争を始めた国家と首謀者を罰する必要があるからだ」と述べている。このような考えも視野にいれておくことも大事かなと思う。

●戦争はいけない、ということは一緒ですが、どうすれば戦争は起こらないようにするのか、そして、今、日本はぎりぎりのところで平和なのか、という事も含めて考えていくともっと立体的に考えられるのではないかと思う。日本が戦争をおこした理由は、第一次世界大戦後のパリ講和会議で日本が、人種差別撤廃条約を提出した。そして、世界から日本へのいじめが始まり、大東亜戦争となった、と私は考えている。

文部省唱歌は、愛国心を育てるための教材である。童謡は違う。

●この会に初めて参加した。私が教員時代に中学校の社会の担当していた時に、生徒の親御さん達に戦争体験記を書いてきてもらった原稿がある。これを、今の学校現場でぜひ活用してほしいと思っている。今日はこの会に来て良かった。

●私は幹雄さんより4歳年下ですが、共通することも多くありました。小さい頃の遊びは、兵隊ごっこかちゃんばらをして、その時にケガをした傷が今でも痛み、そのことで戦前を思いだしたりしている。昨晩のノーベル平和賞を受賞した方々が、若い人たちに繋いでいかないといけないと語っておられた。日本国憲法は崇高な憲法で、世界に類をみない憲法だと思っている。来年は、戦後80年、昭和で100年の節目の年ですが、私は日本国憲法をいつもカバンに入れており、永久に戦争をしない、と。でも、これが今、危うい、という状態で。憲法9条はとても大事なところ。アジア版のNATOをつくろう、という。

11月5日のアメリカの大統領選挙、ウクライナとロシアの戦争、テレビで見ながら、私は一人でつぶやいている。昭和20年3月18日の朝、日置の向山という山に、グラマンが操縦かんが見えるくらいの低空で機銃掃射、私の家も打たれました。その夕方、小学校に爆弾が落とされたと行ったら、民家に落とされていて、すり鉢状の大きな穴が空いていた。

まとめ 山下春美

「戦争をしてはいけない」「戦争は反対」と誰も異を唱えることのない言葉でありながら、「じゃ、具体的にはどうすればいいの?」と、問われると、口ごもってしまう。そんなジレンマを抱えながらも、戦争をしてはいけない、という思いを持ち、集まってくださる方々がいることが私は幸せです。

いつも、集いに参加して下さるみなさん、本当にありがとうございます。

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