「人間爆弾・桜花の発案者」

2024年
ウィキペディア「桜花」

季刊誌「わおん」に掲載されていた前田孝子さん(芙蓉之塔ものがたり・著者)のエッセイを転載(了解済み)をさせていただきます。

人間爆弾・桜花の発案者    前田 孝子

 8月4日に舞台公演「桜舞」を観た。戦時中に人間爆弾・桜花を取り上げた舞台である。6年前に、戦時中の鹿屋基地で桜花出撃を見送ったという元隊員を取材したことがあった。

 昭和20年3月21日に、鹿屋基地では日本海軍の運命を背負った作戦会議が極秘裏に進められていた。特攻兵器「桜花」を使って、アメリカ艦隊を一挙に絶滅しようという作戦で、参加したのは第七部隊(第七二一海軍航空隊)別称「雷神部隊」である。

 桜花はロケット噴射で進む爆弾に羽が付いた形状の兵器で、隊員が乗り込み、1、2トンの大型爆弾と共に、敵艦に体当たりするという恐ろしい特攻兵器である。この特攻兵器が鹿屋基地で使用されたのは、昭和20年3月21日から6月22日までで10回出撃した。しかし、桜花を吊り下げた母機が敵艦に近づく前にアメリカの戦闘機に撃ち落され、殆ど成果は挙げていない。桜花は連合国からは、日本語の「馬鹿」に因んで、
「Baka Bomb」(馬鹿爆弾)というコードネームで呼ばれていた。

 この恐ろしい爆弾を発案した大田正一という人物は、終戦から3日後に「東方洋上に去る」という遺書を書き残して茨城県神之池基地から零戦で自殺を遂げたとされていた。その後帰って来なかったので、旧海軍では公務中の「航空殉職」として大尉に昇進、戸籍も抹消済みとなっている。

 ところが事実はそうではなかった。1950年に「横山道雄」と名を変えて突然現れた大田正一。その後に大阪で結婚し、3人の子供にも恵まれた。息子の大屋隆司が父の本当に名前を知ったのは、多感な中学生の時だった。子煩悩でいつも優しい父と、恐ろしくて非情な兵器を考え出した父親とが結びつかず、どうしてもそれ以上に父親に話を聴くことはできなかったという。

 大田はその後も、名を変え住所を変えながらも逞しく生き延びた。そして、1994年12月に大田は亡くなった。つい最近まで墓石に大田の名前は刻まれていなかったが、昨年丹波篠山墓苑の墓石の下の納骨室には、マジックインキで名を記した大田正一と妻、義娘の遺骨が並んで埋葬され、墓石の裏には3人の名前が並んで刻まれているという。

 部隊の桜舞は、人間がロケット爆弾の誘導装置となり、敵艦に突入する桜花要員として、敵に突入する事だけを念じていた。しかし、鹿屋基地に赴任した秋山勇予備少尉は、周りの人々との残された時間の中で、生きる意味、死ぬ意味などに気づいてゆくというストーリーであった。

 「人間の命は地球より重い」と小さい頃に習った。最近は戦争、事件や事故であっという間に人命が奪われることが多すぎる。生きたくても生きられなかった、当時の多くの若者たちのことを決して忘れてはならない。

編集後記  山下 春美

  前田さんのエッセイを読み、私自身もインターネット内だけですが、「大田正一」という人を調べてみました。つい、「つら(顔)の皮の厚い人だぁな」と思ってしまいました。

 そう思う裏側には、「こんな非道なことをした人は、死んで当然だ」という思いが私に起こるわけです。
確かに、多くの若者を死に追いやったことが事実(私が検索した範囲では)ならば、自分だけ生き延びるなんて、図々しい。

 かといって、この人が死ぬことで、桜花によって多くの若者が亡くなった問題が解決するのか、という疑問も起こります。 

 一体、大田正一、とう人は、どんな思いを持ち続けながら、一生を終えたのでしょうか?
きっと「死ぬ」ことも、「生きる」ことも、この人には、同じような辛さ、だったのかもしれないと思えました。

コメント

  1. せしたみつる より:

    本文を読んで「大田正一」が戦後名を変え場を変えてまで何故生き残ろうとしたのか、わかりませんがこの話を読んで二人の人物を思い浮かべました。

    特攻の父といわれた(特攻の発案者ではないが)大西滝治郎中将。敗戦の日に「これでよし 百万年の仮寝かな」と遺書に残し、割腹するも介錯を拒み十数時間苦しみ続け死を遂げた。
    それは、国家のためとはいえ非情な特攻で、次々と命を散らしていった隊員達は、すべて若人だった。
    この体当たり攻撃に送り出した痛恨の思いがこの遺書だったのだろう。

    かたや、ギリシャ哲学研究者の出 隆(いで たかし)は、終戦後多く現れた変節漢のひとりだが、大戦、学徒に対し「諸君にはすでに美しく、貴い死への用意は充分である。今こそ実地に美しく鮮やかな死を死にきって戴きたい」とまで言って送り出したが、「きけ わだつみのこえ」の遺稿に、こうした貧弱な知性は戦争を感情的に忌避することだけで、実際には戦争を止められず「聖戦」という名の侵略戦争「屠殺場」に投げ込まれただけだったと、大戦中の自説の対極の自論で、さも戦争反対者であったかのような振る舞いをして学術界を生き延びた。

    この「つら(顔)の皮の厚さ」は笑って済まされるものではなく、命を散らした学徒たちにどう詫びていいものやら。

  2. 春光 より:

    コメント、ありがとうございます。出 隆 という方は、人間枠を超えた「つらの皮の厚い」人だったんですね。

    しかし、もっと情けないのは、このような人物を学術界で、受け入れ続けていた、ということです。お偉い方々は、この人の発言をどのように受け止めていたのでしょうか?

    幸いなことに、戦前、戦中、戦後の時局で、人間がどのように振舞い、言説を残してくれているか知ることができます。

    私達は、先達たちからの学びとして、今の自分の振舞い、考え方を照らしていけるのではないでしょうか。

    二度と命を散らす子孫をつくりださないために。