広島・長崎の原爆投下の日に寄せて

2024年

 第24回「原爆と人間」展、姶良市中央図書館で開催しています。
 日時:8月6日(火)~9日(金)午前9時から午後7時迄
 ※この展示会は、24回毎年、広島と長崎に原爆が投下された日を中心に開催され、今年で24年目だそうです。毎年、開催することが人々の記憶の風化を防ぐことになるのだと思います。親子連れや老若男女問わず、多くの方が来場されていました。 ぜひ、足をお運びくださいませ。

被爆地にたつ孤児収容所  瀬下 三留

「戦争で傷つけるのも、傷つくのも、そして手を差し伸べる事が出来るのも同じ”人間”だ」

 戦後間もない広島の港に、台湾から引き揚げてきた4人の戦災孤児の兄弟がいた。
彼らには日本で引き取り手もいなかった。
そんな4人の兄弟に声をかけてくれたのが、上栗頼登(かみくりよりと)だった。

 名もなき26才の元陸軍兵だった彼は独力で孤児院を開いていた。

 なぜ上栗は自らの人生を投げ打って孤児と生きようとしたのか?

1945年8月6日、午前8時15分
原爆投下の惨劇の中、たくさんの人が服が焼け、皮膚が溶けた人が上栗の水筒を見て「兵隊さん水ください」と哀願するのに、当時の軍医から「大火傷している者に水を与えちゃいかん。水を与えると死ぬ。」と言われていた事で、もし水を与えたら殺すようなもんだ。
 殺したらいかんと思って、水筒を隠した。

 次に橋のたもとで、赤ちゃんの、か細い泣き声を聞いた。
近づいてみたら、お母さんは死んでいて、赤ちゃんは火傷してるけど、まだ生きている。
でもこの子ももうすぐ死ぬだろう。苦しいだろうと思って水筒のふたを開けて、赤ちゃんの口に水を含ませた。

 上栗は、自分は一度死んだと思った。そしてこれから生きていけるなら、あの赤ちゃんのように親を亡くした孤児たちをみようと決心した。

 終戦から2ヶ月が過ぎると、海外からの引揚げ者が港に入港し始めた。
日本に帰り着くまでに亡くなる引揚げ者は後を絶たず、たとえ上陸しても、身寄りのない人を収容する施設はなかった。
 せめて、子どもだけでも・・・。

入隊前、大学で社会福祉を学んでいた上栗は、旧陸軍の兵舎を借りて、自身の退職金2000円を元手に、引揚孤児収容所、現在の「広島新生学園」を始めた。

 開設から2ヶ月間で220人の孤児を収容した。
中には、名前も、わからないまま亡くなった引揚げ孤児もいた。
南方から引き揚げてきて亡くなった子には「南」という架空の名前をつけて見送った。
今も学園の納骨堂には、「南千代子」「南花子」という名前が書かれた遺骨10柱が納めらている。

 ⭐収容施設とはいうものの

 戦後の混乱時の学園には、充分な食べ物も衣服もなく、施設も狭かった。

 当時の日誌に”誰にも腹一杯、食べさせてやりたい。暖かくしてやりたい。子供達が暖かい衣服がまとえるなら、上栗が裸で歩く”と書いている。

    ⭐相次ぐ逃亡

 厳しい規律が求められる集団生活の中、施設より路上が自由だと、逃げ出す園児も後を絶たなかった。
 中にはナイフを手にする子まで出てきた。

 みんながあまりにも悪い行動をするので、上栗は事を沈めようとみんなを集めて、包丁で自分の手を切ってみせた。
みんなは「やめて下さい。」と言った。

 当時、上栗は20代で独身。
愛情だけでは、どうにもならない現実。

 ⭐子どもを「利用」する大人

 新生学園に保護された子どもたちにも、こんな経験をした子もいた。
「僕は帰る家がないので駅で困っていた時に、27、28くらいの男の人が来て、『家がないのか?』と聞いてきた。
それは”ヤクザの親分”でした。
「僕はドロボーやスリを習いました。」

⭐「岸壁の子」たちのさみしさ

 夜にお父さんやお母さんが帰ってくるかもしれないと、学園を抜け出して、大竹港や宇品港で待っている「岸壁の子」というのがいた。
ところが、誰一人親は帰って来なかった。

 当時17才の男の子は、「記憶してるだけでも12回逃亡した。
普通の家の煙突から煙が立つのを見たりすると、とめどもなく涙が出て、今まで堪えていた孤独感が爆発して、声をあげて泣けて泣けて仕方なかった。」と述懐している。

⭐親がいないからこそ、教育を

 上栗がたどり着いたのは、「この子たちには教育しかない。」だった。
このような子どもたちが社会で自分の人生を切り開くには、学問を学ぶしかないと考えた。
学校に通える算段がついて、上栗たち職員は期待に胸を膨らませたが、学校で子どもたちを待ち受けていたのは、いじめという冷徹な仕打ちだった。

⭐たとえ「役所」が相手だろうと

 上栗は多くの園児を高校に進学させようとした。
高校進学率はまだまだ40%台で、普通の家庭の子でも高校に通う事が少ない時代、孤児に高校は必要ないというのが、もっぱら教育現場の意見だった。

 ある日、上栗は高校の校長から呼び出され「孤児に高校は贅沢だ。」「働きに出せ。」と言われた。
「親がいない子どもたちだからこそ、高校卒業という資格を取らせてやりたいんだ。」と大喧嘩した。
県庁だろうが、教育委員会だろうが立ち向かって子どもたちの「進学」を守った。
 そのおかげで国立大学に進学し、小学校の校長まで勤め上げた卒園生も誕生した。

⭐「2千人」の父が残したこと

 上栗が支え続けたのは、自ら「孤児院」出身という事を世間に明かすことの出来ないまでに、重い過去や現実を背負わなければならない子どもたちだった。
中には重圧にたえきれずか、身を持ち崩した子もいた。
上栗は1995年、76才でこの世を去った。
それまでに育てた子どもは2千人を超えた。

 ”戦争で傷つけるのも、傷つくのも、そして、手を差し伸べることが出来るのも同じ「人間」だ”

せめて最期の水を差しだせばと・・・。そして、あの日の後悔を、繰り返さないために。

上栗頼登の戦後の福祉事業はあまり知られていない。先の大戦後の孤児たちを救ったエリザベス・サンダースホームの澤田美喜氏、愛児の家の石綿さたよ氏、長崎ひまわり寮の餠田千夜氏などさまざまな取り組みがあったが、いずれも女性たちだった。
男性でしかも、宗教家でもない元軍人が戦災孤児の施設を身銭を切って起こした事に、上栗の想いの強さを感じます。

参考文献
広島ピースプログラム

テレビ新広島

福祉新聞

ブログ月の光で澄み渡る
「被爆地に立つ孤児収容所
〜2千人の父、上栗頼登〜」

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