物語「約束の地」ー戦争を経験した父の人生ー⑲

2024年

抑留から帰還へ

 帰還船の中の日本

 11月6日に忌まわしいソ連のナホトカを出港した。

 出港すると「みなさま、長い間の抑留生活ご苦労様でございました。本船は午後六時に、ナホトカ港を出発しました。本船は明後日の午前中に函館港へ入港の予定です。天候は良好、風はなく、海上は比較的平穏でございます。」と、船内放送があった。

 船室は案内されて一番奥の部屋をあてがわれた。

 部屋に座った頃、案内人が「本船では夕食が始まりますが、食堂が用意できません。各部屋に係りの者が配食いたします。配食が終了するまで場所を動かないようお願いします。本日の献立はライスカレーと梅干しでございます。」と言った。

その瞬間に「ウォー!」と、どよめきが起こった。

 子どもみたいカレーを待っている我々の前に、三十分くらいで給仕が大鍋に入ったカレーと皿や大しゃもじ、長柄の杓子を持ってきた。

 皿にカレーを盛り付け、梅干しを一つ添えて配ってもらった。

 「うまいぞ!」とはしゃぐ者もいれば、「あさっての夜にはいくらでも飲めるぞ。ちったあ国からのお手当も貰えるだろう。」と戦争の駄賃を期待する者もいた。

 とにかく二年ぶりの米の飯のうまかったこと。

 食べ終わって、給仕が皿の回収に来たあとは、「明日は何が出るんだろう?」「黒パンの時代は終わった。あんな物、頼まれても二度と食えるか!」と食べ物の話題で持ちきりだった。

 三日目の朝、突然「日本が見えるぞ」と、叫ぶ声にほとんど全員が甲板に飛び出して行った。

 予定通り11月8日、「英彦丸」は函館港に入港した。

 これでやっと日本の土を踏めると思っていたが、「これから検疫と入港手続きを開始します。」と放送があり、それで函館に上陸するのには丸五日かかったのだ。

 税関検査、携行荷物の検査などで私の所持品は、背嚢、雑嚢、水筒、飯盒だったので、そのように申告した。

 申告が終わると、順番に医者の検診を受けて入浴するようにと言われた。人数が多いのでなかなか進まず、だいぶ経ってから、入浴の番が回ってきた。

入浴の間に、衣類及び携行品は消毒されるとのことだった。

 二年半ぶりのゆっくりとした入浴で、痩せ細った身体を手拭いに石鹸をこすりつけて洗うが、長年の染みついた汚れはすぐにはきれいにならなかったが「極楽、極楽」とかみしめる者もいれば、「身体をこすってくれ、交代でお前の身体もこするから。」と背中を流し合おうという者もおり、まるで町の銭湯のようだった。

 入国が終わり、次は検査場で種痘、各種予防注射のあと、頭からDDTの白い粉を噴霧されるのだった。

 風呂に入る前にしてくれたら良かったのだけど、引揚者は全員頭が真っ白になって上陸していた。

 二日目には復員事務所に行くように促され、係員の机の前の椅子に座って、係員からモンゴルでの生活、国内事情やさまざまな質問に答えた後、本籍、入隊前の住所、原隊、階級、氏名を書かされた。

 すべて記入が終わると、封筒を支給してくれた。

 「ここに復員手当と、入隊前の居住地までの無料乗船乗車券が入っています。支給額は兵も将校も一律四百円です。少ないですが、帰りの弁当代くらいにはなります。」

「切符は、今日から五日間は日本中どこでも行けます。どんなに混んでいても、特別に席を確保できるようになっています。列車の本数が少なくて、一般の人には切符が手に入らないのでブローカーが高値で買い取る話を仕掛けてきますが、絶対に売らないでください。売ったらもう故郷へ帰れなくなります。」

 私は、特別切符をしっかり握りしめて、本土への連絡船便の出発時刻、夜の十一時まで待つことにした。

 帰還便は都道府県別に編成されていて、鹿児島行きの便はだいぶ後の方の出発だった。

 待っていると知ってる者も数人いたが、その場には松崎君はいなかった。

 きっと後の便だったのだろう。

コメント