第8章
供述調書作成尋問
今日は朝の点呼の後、煉瓦工場には行かず整列したまま蒙古軍捕虜監理官より「捕虜はしばらく待機するように。」と達しがあった。
どうやら順番に監理室に呼ばれて、調書を取るらしいと状況がわかってきたが、自分の番がいつくるのか、取り調べがどれくらい時間がかかるのかまったくわからない。
みんなその場でへたり込んで時間を潰してる。
立って待つのは身体が持たない、みんな同じだった。
2〜3時間くらい経っただろうか、やっと自分の順番がきたようで、呼ばれて監理官室に入っていった。
①「まず自分の名前を述べよ」「次に父親の名前は?」
蒙古語での監理官の質問を、通訳が日本語にしたのを聞いて
②「セシタ フカシ」「セシタ スエクマ」と答えた。
③「誕生年および出生地?」
「大正4年 鹿児島県川内市向田町815番地」
④「徴兵以前に最後に居住していた場所は?」
「満州 鞍山(アンシャン)」
⑤「家族について、妻子または両親の氏名、父称、家族の職業については?」
「スエクマの息子 母親はトメ。出生地で生まれた。妻はナツエ」
⑥「出身階級(両親の資産状況)?」
「出生地に一軒屋で住んでいた」
⑦「捕虜自身の資産状況?」
「なし」
⑧「民族?」
「日本人」
⑨「言語?」
「日本語」
⑩「国籍?」
「日本」
⑪「職業および専門分野(就業年数)?」
「土木の仕事10年間、満州で4年間」
⑫「政党、団体の加入状況(いつどこで加入し、活動したか)?」
「なし」
⑬「基礎教育および専門教育?」
「大正14年〜昭和6年まで小学校、昭和7年〜昭和11年まで専門学校」
⑭「士官学校における教育?」
「なし」
⑮「最終的な階級、称号?」
「なし」
⑯「軍隊またはその他の組織で授与された最終的な役職?(部隊名または組織名を明記すること)」
「第13旅団 第3大隊 32部隊に一等兵士」
⑰「習得言語?」
「なし」
⑱「ソ連での居住歴。もし居住していた場合にはいつどこで何に従事していたか?」
「なし」
⑲「親戚および知人のソ連またはモンゴルでの居住歴。もし居住していた場合には、その人物の姓名および父称、年齢、どこで何に従事していたか?」
「なし」
⑳「刑罰を受けた事があるか、もしあればいつどこで、誰から何の件で処罰されたか、また当該の刑罰をどこで受けて償ったか?」
「なし」
㉑「出身国以外に渡航歴のある国。いつからいつまで何の目的で?」
「昭和17年〜昭和20年8月まで満州にて陛下の兵士として」
㉒「軍に登路された認識番号および服務していた所属部隊は?」
「なし」
㉓「捕虜となった年月日と場所?」
「昭和20年8月21日に公主嶺あたりで満州軍に(通訳が読み取れなかったため不明)」
㉔「褒賞の有無。どんな理由で褒賞を受けたか?」
「なし」
㉕「入隊以前のすべての活動内容と状況?」
「大正14年〜昭和11年にかけて工場、昭和11年〜昭和20年7月まで労働者」
合計25項目の質問が通訳を通して行われ、私のそれに対する返答も通訳を介して行うため、1時間はゆうにかかっただろうか。
特に年月のある質問には思い出したり、訂正したりでかなり時間がかかったが、せっかちな監理官の機嫌を損なわないように丁寧に答えた。
次に待っていたのが、健康状態の観察だった。
目視で身体を見て、適当に済ませていたようだった。
衰弱していたり傷病のある者には時間をかけて行なったようだったが、私の場合は以下のような所見だった。
健康状態の詳細 特になし
身長(高低) 中背
身体の状況 不良、細い
髪の色 黒
目 眉が黒
鼻 高い鼻
顔 やや丸顔
次に署名を求められた。
署名の場所は、項目⑩の横の空き枠にと言われ、そこに鉛筆で「瀬下 深志」と記入した。
最後に供述調書を記入した蒙古監理官が署名した。
あとからわかったが、監理官はサンジャーという人物だった。
戦争が終わって、2年経った1947年6月27日の事だった。
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