物語「約束の地」ー戦争を経験した父の人生ー⑭

2024年
ラーゲリ 収容所 参考資料:戦場体験史料館

第8章

次のセレベ煉瓦工場へ

 私たちの班は、このような果てしないボンボトの木材伐採労働を1年半ほど従事させられた後に、昭和22年6月21日には作業場が煉瓦れんが工場に移動になった。

 移動はトラックの荷台に立ったままで、みんな落っこちないようロープにつかまり、座るような余裕はなかった。

 立った人がうずくまったと思ったら、そのまま亡くなっていた。

 トラックの移動中に亡くなった人は何人かいたけれど、遺体は途中に置いてきた。

 その遺体には土もかけられなかった。

 着くまでに何人、亡くなったかわからない。

 そうやって着いた先はボンボトよりウランバートル市に近く、東北方に3キロのところにあるセレベ煉瓦工場だった。

 またここから命を削るような労働が始まるのかと、絶望的な思いが込み上げてきた。

セレベ煉瓦工場での労働

 外蒙古の首都であるウランバートルもその頃には、我々と同じ日本人抑留者の労働で新しいビルヂングが建ち、道路や広場は美しく整備され、中央の銅像は今にも馬が動き出しそうに見事だった。

 寝ても覚めても食糧のことしか考えられない頭が、昼になって飯盒にスープが配給された時、やはり期待は裏切られた。

 そのスープは葉っぱが二、三枚浮かんだだけの塩の汁だった。

 今度の収容所はシャフィーン トインボルド バートルトという名前らしい。

 これからここを寝ぐらにして、煉瓦工場へ行くようだ。

 翌日5時には作業出発の鐘が鳴り、いつもの硬い黒パンをさいの目に切り、粥に浸して食べ、整列したあとは作業出発の行進するのみだった。

 煉瓦作りの作業は、作って日干しして、それをかまどで焼き上げて製品にするが、作るためにまず用土を掘り出す断崖の下を掘り下げ、石のない粘土を採取し、ふるいにかけ、それを平地まで運び上げ、水を入れよく練りあわせたものを、団子にして型の木箱に投げ入れて、砂をまいた平らな所に持って行ってひっくり返し、その箱を取り上げ、うまくできればいいが、なかなか上手く出来ない。

 食糧も、栄養も、足りてない身での煉瓦作りは大変な重労働だった。

 用土を掘り出し、ふるいにかけて運搬するだけで午後までかかる。

次は、その用土を小山のように積んで真ん中に穴をあけて、水を入れ足で踏んで練り合わせる、よく練り合わせないと、よい団子が出来ない。

 練るのに足で踏んでみそ玉を作るような要領で用土を練る。

 それでも用土の小さい山に一時間ほどかかる。

 次は、それを大きい団子に一つ作っては、型箱に入れるのだが、力強く入れないと箱の隅によく入らない。

 箱は二個入るようになっていて、さらにそれをひっくり返して炬形(きょけい)の煉瓦のナマができる。

 しかし、そうそう、うまくいかない。

 それを並べて二列にする。

 一日のノルマは一人、二十個のはずだったが、すぐに三十個に増やされた。

 ノルマを達成しないと終わるまで宿舎に帰れないので、終わった組はできてない組の応援をして達成していた。

 終わらないと蒙古兵の歩哨(ほしょう)が、自分が早く帰りたいのでやたらと、銃剣をちらつかせ、ダワイ、ダワイ(早く、早く)と怒鳴りつけてきていた。

 一日一日と日を重ねるにつれ、毎日の長時間労働は次第に身体を侵し、体力の弱い者は次々と倒れていく。

資料:国立中央公文書館 モンゴルでの都市建設に関与した日本人捕虜 

 戦争が終わってやっと爆撃や銃弾の恐怖が過ぎ去ったと思ったら、今度は日本から地の果てというような異国で囚われてもう2年になろうとする。

いったいいつまでここにいてこんな過酷な労働が続くのだろうか?

 早く日本に帰りたい。生きて日本に帰りたい。

 みんな同じことを思っていた。

 朝の点呼でまた一人倒れた。

私も気力はあっても身体の自由がきかない。

体力の消耗を減らす以外に生き残るすべはない。

忍耐あるのみだった。

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