第七章
武装解除されて
私たち福寿37543部隊は、新京南岑で防衛のための陣地構築中だったが、8月15日終戦の放送があったと、原田旅団長からの言葉だった。「終わったのか・・・」という安堵の気持ちとともに、「負けた。」ということはどういうことになるのだろうか、という不安の気持ちが交錯して隊の仲間たちと今後のことを語り合った。
中には「一人でも残って死ぬまで戦う。」という者や、「腹を掻っ捌いて陛下にお詫びする。」と叫ぶ者やで混乱していた。
しかしながら、次の命令が下された。
8月20日になると作戦のため公主嶺に集結せよ、との命令があり、公主嶺に移動する事になった。
翌21日に、陶家屯の司令部に到着した時点で、司令部構内にソ連兵三人が入ってきた。
8日には、ソ連から大日本帝国は宣戦布告をうけたということは話で聞いていたが、三人のソ連兵は肩から銃をぶら下げて我が軍を警戒している様子だった。
その銃は見たこともない形で銃身の真ん中に丸い形のワッパが付いていて、彼らは日本兵のように銃口を上に向けていなくて、地面に向けて下向きに肩から下げていた。
隊長から「突然侵入してきたソ連軍に決して発砲しないように、現在話し合い中である。」と伝えられた。
妙な格好の銃はマンドリンという自動小銃で、自動的に七十数発が発射できる新鋭小銃だと聞かされた。
我々の三八式歩兵銃とは天地の差であった。
しばらくして隊長から「無条件降伏した。しかるにこれから武器類はソ連に引き渡すことになるだろう。また我々の身分は今のところ分からんが、おそらくソ連の捕虜として扱われると思うので気丈にして、一日も早く祖国の土を踏めることを祈り健康に留意し、ソ連の指示に従うように。」との言葉であった。
武装解除は三日後、ソ連軍によって実施された。
そしてこれまで、毎日精魂込めて手入れした兵器類を泣く泣くソ連に引き渡して身軽にはなったが、ソ連軍の指示する場所に銃を置く場所、銃弾を置く場所、手りゅう弾などを置く場所にみんなそれぞれに置いた。
今まで様々な思いで扱ってきた銃器類を、いざ手放すとなると身が裂かれるような思いもあったし、ほかの戦友たちはどんな思いだっただろうかと考えた。
陶家屯で武装解除となり、そのまま公主嶺に独立歩兵第789部隊として丸腰で向かった。
公主嶺に向かう道すがら、日本という背景を失った在留邦人の婦女子にソ連兵が迫ってくることもあり、また満州人が柄の長い大鎌を担いで日本人と見れば復讐心を持って迫ってくる状況だった。
子どもを背負った顔から血を流した婦人が逃げ惑って「助けてください!」と叫ぶ姿もあった。
実に悲惨であったが我々は武装解除の隊列で、ソ連の警戒兵の厳重な監視のもとで、兵器も銃器も持ってない部隊としてはどうする事も出来なかった。
長い隊列の中で、「すまない、どうか無事に祖国に帰り着くように・・・」と心で祈る事しかなかった。
その後、鉄道線路を徒歩で行軍中に,一時期、途中で在留邦人が我らの後をごっそりと部分同行した時があったのだが、その中にいたある婦人は乳児を背負い、4、5才くらいの幼児の手を引いて歩行していたのだが、この幼児は空腹と疲労で半分眠りながら、また泣きながら、母の手に引きずられるように歩いていた。
見るに見かねた山下という二等兵がソ連兵に気づかれないようにこっそりと、わずかな乾パンを与えていた。
母親は涙を流して、何度も何度もお礼を言っていた。
哀れな今の行軍は、新京警備との命令を受けて行軍する時の軍靴の音とはまるで違う音に聞こえた、行軍の軍靴の音だった。
8月26日になってようやく公主嶺に到着したのだが、ここで我々在満応召者の一部には召集解除との達しがあった。
歩兵789大隊の兵隊のほとんどが,満州で召集された者であったため、今後どのようになるのか皆見当がつかなかった。
宿舎が松崎君とは違ったのでなかなか会うことがなく、たまたま見かけたときに「どうなっとだろう?」と聞いたら「わからん。」と不安そうに答えてくれた。
私も不安だった。
「オイは女房が体ん具合が悪して、弟に世話をしてくれるように頼んだままやっから、鞍山に戻ってから内地に連れ戻らんといかんと。」
「そげんな、わしは奉天に戻らず内地に戻るつもりじゃが、内地までの船とかどげんなっちょったろうか?」との、松崎君の不安を聞いて「内地もどげんなっちょっとかね?」と同じ不安になった。
それでもまずは帰ってと、帰れることに疑いは持っていなかったが、それはつぎの作業第三大隊に編入という指示で遠のいていった。
さらに同地に到着した福寿37534部隊と合流して兵員数も多くなって、作業第四大隊と合同で編入されたのであった。
コメント