会者定離≪えしゃじょうり≫
昭和20年の短い満州の夏も終わり、極寒の冬を迎えた11月に八路軍が鞍山に進駐して来ました。
満州では、八路軍と国民党の内戦も、絡み合って、中国人の日本人に対する復讐意識も脅威になっていました。
日本が行っていた満州支配のひどさにより、戦後満州在住の日本人が味わった悲劇は「当然の報い」と片付けられてしまうのは違うと思います。その後、鞍山周辺在住の日本軍属もことごとくシベリアに送られていったということを聞きました。
それはひどい扱いでした。
20年11月に、婦人会の要請で、おにぎりを各家庭で供出することになり、その頃は体調を崩していた私も病身をおしておにぎりを二つ握って駅前に行きました。
そこには軍服姿の日本兵が千人以上いて、シベリアへ連れて行かれるとのことでした。
のちに一部の日本兵がシベリアへの送達を拒否し、近郊の千山に立てこもり抵抗して、大勢が命を落とした「千山事件」があったことを知りました。
戦場では、誰もが被害者になりえます。満州では、軍需工場と化していた鞍山の昭和製鋼所で働いていた工員も、ろくに兵站もなくまともな武器も与えられないまま、根こそぎ動員で大量に戦場に送り込まれた兵士たちも、満州人から見たら、侵略者であり、加害者だったのかもしれません。
しかし、彼らもまた、国の無謀な戦争によって、生命と財産を奪われた被害者だと、私は思います。
実は、私たち日本人は土足のまま、無理矢理他国へ乗り込んできた者であり、日本人に恨みを持つ中国人の復讐が、その時、私たちはとても怖かったのです。
私たち家族は身の安全を確保するため、内地へ引き揚げたくて、政盛はなんとか引揚船で私も内地へ帰られるように手配してくれるのですが、なかなか鞍山からの引き揚げは始まらないということでした。
それだけではなく、私の病気は感染するということで前田先生の「まず内地までの船移動の体がもたないだろう。それに同乗船者に対し、結核の感染を防ぐ手立てがない。」などの理由でこの地で体力が回復するまで様子を見ようということになったのです。
内地もまだ終戦の乱でこの身体ではなかなか引き揚げて帰れるという状態ではなかったのです。
私の病状は、咳き込むことが多くなり、時々喀血をするようになっていました。
体力はすっかりなくなり、体重も落ちてしまいました。
それでも前田先生が一生懸命治療をしてくださるので、なんとか気力が湧き、政盛が「絶対に川内に帰るよ。必ず連れて帰るから安心して。」と、言ってくれるので希望が湧いてきました。
年の瀬も迫った頃、政盛が私の枕元に来て「姉ちゃん、関東軍はもういないよ。」と悔しそうに話し始めたのでした。
「田所さんが組の班長さん達から聞いてきたそうだけど、今年の春頃には、関東軍の高級軍人の家族たちは、特別列車を仕立てて内地へ引き揚げていったそうだよ。」
「ちょうどその頃、深志兄さんたちは、根こそぎ大量召集されて前線に配備されていたはずだよ。そして満州配備の敗残兵はシベリアへ送られたらしい。きっと兄さんもシベリアへ行ったのかもしれない。」
「俺たちは在満国民を守ってくれるはずの関東軍の上の軍人さんはさっさと満州を見捨てて、内地へ帰っていったらしいんだよ。」
「それはソ連の攻撃が始まった8月9日頃に、関東軍の司令部は在満国民を置いて逃げ、まだ満州に残っていた高級軍人の家族たちを憲兵に守らせて、内地へ引き揚げたという事なんだ。」
「もっとひどいのは、軍の飛行機を使って内地へ引き揚げた高級軍人とその家族もいたんだって。」
「ほかにも日本人同士が報奨金目当てに密告を行ったり、脱走日本兵が日本人に対して窃盗を働くということもあるらしい。」と怒りをぶちまけるかのように、堰を切って話し出しました。
その話を聞いて、私はもう怒る気力もなくなりました。
残念で残念でならない上に、これが今まで散々「お国の為に」とか、「帝国軍人は・・・」とか「泣く子も黙る関東軍」ともてはやされた軍隊のなれの果ての姿だったのです。
深志さんも、私も、政盛もたったひとつしかない命を捧げてきたつもりの「お国」の姿だったのです。
昭和二十一年になると、私は自分の意識が遠くなっていくことがしばしばありました。
その時、脳裏を廻るのが川内の思い出と「会者定離《えしゃじょうり》」という仏教の言葉でした。
命あるものは必ず死に、出会ったのは必ず別れることになる、という意味が身をもってわかってきました。
そう思いながら、私は自分の意識がなくなっていくのがわかりました。
そうして私の二十九年の人生は、この満州の地で終わりを告げました。
昭和20年 ナツエは年初より微熱と咳が続き、体力が低下していく。
同年 3月 昭和製鋼所附属病院で結核と診断される。
8月15日(終戦) 昭和製鋼所附属病院は日本人による機能維持不能により退去、石川病院へ転院。
昭和21年4月6日 弟、政盛に看取られ、旧満州・鞍山の自宅にて死去 享年二十九才。
完
参考文献
「おじいさんが孫に語り継ぐ疎開話」 愛波磐根 著
「少年の眼に映った満州 鞍山(あんざん)・七嶺子村の出来事」 手島清美 著
手島さんは昭和製鋼所の「消費組合」で工員に物資を届ける仕事で、昭和19年に空襲のため七嶺子に疎開、同年末に鞍山に戻るも市街地は銃撃戦が多発し、遺体の山が各所にあった。
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