女性たちの記録集「それぞれの100年」から No.8 『内倉ヤス子さんは、なぜ心中を選んだのか』

2024年

 内倉ヤス子さんは、なぜ心中を選んだのか  松永三重子

 1944年20歳で兵役についた父の足跡をたどる中で、偶然、内倉光秀中尉一家の心中事件を知った。夫、内倉中尉は、肝属郡吾平町川西(現・鹿屋市)の出身。妻、ヤス子さんはカリフォルニア州生まれで両親は熊本県出身だった。二人は、ヤス子さんの義兄と光秀さんが同じ満州の独立守備隊に属していた縁で、1937年(昭和12年)結婚した。その後、盛岡、浜松と転居している。

 敗戦とはいえ、戦争がやっと終わったという解放感に包まれていた人々がいた一方で、ヤス子さん一家はなぜ、心中を選んだのだろうか。子どもの命を奪うことに迷いはなかったのだろうか。夫に反論しなかったのだろうか。同じ女性として、ずっと気になっている。

 事件が起きたのは、1945年8月16日、亡くなったのは陸軍中尉、内倉光秀さん37歳、妻 康子さん、33歳、格治さん7歳、秀代さん6歳、滋子さん2歳の5人。心中の現場は、滋賀県日野町木津の墓地だった。

 静岡県浜松の軍隊が米軍の空襲で壊滅的は被害を受けたため、7月中旬、部隊とその家族は日野町に移動していた。光秀さんは、浜松に残り、残務整理にあたっていたが、8月15日午後、光秀さんも日野町に到着し、ようやく家族は合流することが出来た。17日朝、部隊に光秀さんが到着しない、家族も全員不明ということで捜索が始まった。

 第一発見者の岡熊吉さんは、「子ども二人を中に軍装のままの中尉と、小さい子どもさんを抱いた奥さんが何一つ取り乱さず一列に並んで絶命されているのです。」と、回想されている。16日夜9時頃、銃声を聞いたとの証言もあった。光秀さんが4人の心臓部を刀で刺し、自分は拳銃でこめかみを撃ち、命を絶っていた。

夫婦の遺書が残されていた。

夫 光秀さんの遺書 
「生きて辱しめを受くる事は鹿児島の気風として帝国陸軍将校として誠に忍びきれません。・・・死して靖国の神々と共に永久に戦う所存です。」

妻 ヤス子さんの遺書
「私共は私共らしくおわりたいと存じます。」

また、光秀さんは上官へ宛てた遺書には、「薩摩隼人として生きて捕虜の辱しめ受けず」と書き残している。

 光秀さんの義姉 内倉美加さんの回想では、「兄弟揃って御国思いで何時も天子様の為ならと話をしていた。」とのこと。

「天子様(天皇)の為なら命も投げ出す」「捕虜になってはならない」という、戦争遂行のための教育の恐ろしさ。夫に従うのが美徳の教育。ヤス子さんの一家はその犠牲者だったのか。

 貧しい農家の7人目に生まれた光秀さんも、おそらく移民の子で引揚者だったヤス子さんもこれからの生活に希望を見いだせない、寄る辺なき身という絶望感があったのか。

 日野町木津の人々は墓を建て、心中の地に記念碑をつくり、追想記「あの時こんな事件が」を作成された。私は父が所属していた「航測連帯」をインターネットで検索していて、報知新聞2004年4月8日「燃え尽きた命が星にー壮絶な最後を遂げた将校の一家―」の記事を見つけ、この事件を知ることができた。

 妹と日野を訪れ、墓参したのは2008年11月末のこと。第一発見者、岡熊吉さん亡き後、子どもの岡弘太郎さんが墓を管理されていた。4つ年下の格治さんのことは同じ転校生として気にかけておられたとのこと。「格治君が生きていたらきっと、立派な大人になっていたと思います。残念です。」と、いう岡さんのことばをその時、記録している。

内倉ヤス子さん一家のご冥福を祈ると共に、私たちは今、何をなすべきか、真剣に考え、傍観者でいてはならないと思う。

おすすめ本

「日本は中国で何をしたのか」 大賀和夫 (1989)葦書房

「鹿児島、韓国 封印された歴史を解く」疋田京子ほか (2002)南方新社

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