叔父は串良基地から飛び立った 野田千佐子
私の叔父(母の兄)は、通信兵として串良の航空基地から飛び立ち、17歳で命を落とした1人です。その縁もあり、毎年10月に開催される旧海軍航空隊串良基地出撃戦没者追悼式には、時間が許す限り参加しています。
叔父は、宮﨑祐一、海軍攻撃第254飛行隊所属。35年前、私が嫁いだことがきっかけで、それまで叔父の最後については、「鹿児島のどこかから飛び立った。」としかわからなかったことを、母が調べ始めました。
母自身は、北朝鮮からの引揚者です。確か10歳ぐらいで日本に帰ってきたはずです。祖父も出兵し、最後はシベリアだったと聞いたことがあります。北朝鮮では、大きな事業をしていたようで、時々、ふと向こうでのこと、引き揚げる時の話などをしていましたが、今の私の記憶に詳しいことは残っていません。
成人してからは、あまりその話をした記憶がありません。多分、相当つらい記憶だったんだろうなぁ、と想像するしかありません。引き揚げて、内地に帰って来てからは、引揚者だと、片親だと、馬鹿にされないために、いろんなことを辛抱し、頑張って生活していたようです。
叔父の所在については、色々な方の手を借り、最終的に鹿屋の自衛隊に記録があったそうです。敗戦時に、他の基地がいろいろな資料を処分する中、串良基地はそれをしなかったと、先日参加した追悼式後の戦跡めぐりで聞きました。それを聞いた時に、母が串良にたどり着けたことは奇跡だったんだと感じました。
「串良から飛び立った。」と、知ってから母は、生存者の方と連絡を取り始めました。ある生存者の方と連絡が取れ、集合写真の複製を送ってくださいました。昔の写真ですから、目鼻もぼやけて、誰が誰だかわからない状態でしたが、さすがにわかるんですね。
「これが、お兄ちゃん!」と、ニコニコしながら指さしていました。
串良で開催される追悼式へは、30年ぐらい前に父と母と初めて行きました。生存者の方、どちらかと言えば上官にあたる方々も何十人といらしていました。そこで、母とお手紙のやりとりをした方が、立ち話をしていたのをぼんやりと覚えています。
コロナ前から母も自由に動くことができなくなり、その間、追悼式は縮小されはしたものの開催されていたので、ここ数年は私が娘や孫を連れて行って、その報告をしていました。しかし、30年の月日は、生存者の方々を参加できなくしてしまい、今年はお二方でした。
佐賀からいらした生存者の方のお話を伺いましたが、ご本人も「今、話しておかなくては。」と、こちらも「今、聞いておかなくては。」と、緩やかでも糸の張りつめた時間でした。
母が叔父を捜すためにやり取りしたいろいろな手紙や資料が、今は私の手元にあります。日々に追われ、1年以上、手つかずになっていますが、時間を見つけて、少しずつ紐解いていきたいと思っています。
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