毎年3月8日に祝われる記念日「国際女性デー」。この日は、女性の権利と平和を祝うために設けられており、世界中でさまざまなイベントやキャンペーンが行われます。
その記念日に先立ち、当ブログでは、1月20日にサンエールフェスタで開催された「女たちの100年・相星雅子の反戦文学」で配布された記録集「それぞれの100年」から9名の女性の方々の振り返りの記録を掲載させていたただきます。記録集作成者は、「アイ女性会議鹿児島県本部」の方々です。
からいも畑で命拾いした義母 内匠千代子
大正10年生まれの夫の母親が、「終戦間近な頃に田舎で農作業をしているとき、突然目の前に轟音と共にアメリカの戦闘機グラマンが飛んできた。パイロットの顔が見えるぐらいの至近距離から、私をめがけて機銃掃射を浴びせてきたので、慌ててからいも畑に身を伏せて、何とか命拾いした。はらぐれみたいで、まるでもてあそんでいるように思えた。」と言っていたことを、夫は今でもはっきりと覚えていると言っている。
※はらぐれ(鹿児島弁):ジョーダン
戦争が激しくなり、小倉の工場から引き揚げてきた義母は、戦争体験の多くは語らなかったが、そのグラマンの事だけは語気を強めて戦争の恐ろしさを語ったという。
当時は軍部による「一億玉砕」「最後の1人まで戦い抜く」という言葉に踊らされ、まさに国民の一人ひとりが日本の兵隊とみなされ、アメリカ軍による攻撃の対象をされたのだ。
何とか一命をとりとめた戦後の暮らしは大変厳しいものだった。南方の戦線から帰国できた父親(二等兵)はマラリアに罹り、何とか母親(34歳)と子供3人の暮らしを支えていたが、マラリアで亡くなった。私の今の夫が生まれてわずか2年余りの出来事だった。
仕事もなく、将来の不安を抱えていた彼の母親に友人が声をかけてくれ、老人ホームで介護の仕事に就くことができたのは幸だった。しかし、労働とは酷いもので、深夜勤務を終えて家に帰って子供の世話をしながら、またすぐ日勤で出勤するという一年中ほぼ働きづくめの厳しい職場労働環境であった。
その上、低賃金で、「赤ん坊のオムツすら満足に買えない状態だった。」と語ったこともあった。戦時中の食糧難や男性に代わって女性が過酷な現場で働かざるを得なかった戦時中、戦地に夫や子供を送らざる得なかった母親たち、意に添わぬ思いで送り出すことしかできなかった母親たちの思いは口では言えない事だったに違いない。
戦後、夫を亡くし、子供を抱えた母親や、戦時中爆撃によって夫や子供を奪われた女性の暮らしは戦時中よりも更に過酷な生活を強いられて人は多い。戦後78年、戦中、戦後を生き抜いてきた人たちが今、トラウマを抱えているという。いつまで経っても戦時中の状況が頭の隅に残り、突然に恐怖を覚えたりするという。
私達は、「二度と再び戦争は許さない」という強い思いを持ちつつも、今、政治は戦争への道をひた走っている。私はこれまで「何故、私たちの両親や当時の人たちは、『戦争反対』の声をあげられなかったのか」という疑問を持っていた。しかし、今の状況を考えれば国民が「戦争反対」の声をあげられなくなるように仮想敵国を作り上げ、「国を守るには軍隊や軍備の強化が必要だ」という声をマスコミおも巻き込んで浸透させることに躍起になっている。こういうやり方で、今も昔も人々の声をかき消されていったのだという思いを強くする。
二度と同じ苦しみを味わうことのないように、戦争体験者の言動に声を傾け、一緒になって子供を産み育てる母親や女性が先頭に立って、「戦争反対」を訴え続けることで、私達の母親たちの苦しみを少しでも和らげることが出来れば、と強く思う。
2024 国際女性デー 街頭アピール
日時:3月8日(金)11:00~
場所:天文館献血ルーム前4月から女性支援法が施行されます。これまで女性政策は売春防止法を根拠にした婦人保護事業でした。女性の支援を実情にそったものにするために、自治体レベルでの取り組みが必要です。
◇女性の貧困の主な原因は非正規問題・低年金です。
◇女性議員を増やしていきましょう!
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