「鞍山(アンシャン)」~私の知らない父の妻、ナツエさんに捧げる物語~ ⑥

2024年

渡満

 鞍山に住むようになって満州の季節感がわかってきました。  
鞍山は満州でも南に位置しているから、北満に比べればまだ暖かい。それでも今頃は零下二十度を超えます。零下二十度を超えると寒いというより痛いのです。

素手で金物を握ると皮がくっついて離れなくなるから危険です。内側に毛皮のついた防寒帽、防寒靴をつけていても、耳たぶと足指の先が冷たいのです。雪が降っている道を歩くと、靴底と雪の表面の摩擦でキュッ、キュッと鳴るのです。こんな時は零下二十度に近いです。

水道管の凍結事故はありませんでしたが、ペチカの煙と共にでるススで薄黒く汚れた雪だまりが少しずつ溶けて、土の表面に、雑草の緑が、かすかに見えてくると、春がだんだん近づいてきているのです。
空の青さが日増しに広がってくると、満州の春は駆け足でやってきます。

鞍山は街の人口の半分以上が昭和製鋼所の関係者でした。まさに昭和製鋼所の町です。
私たちに用意されている社宅は「南一條二十四番地」ということでした。

 鞍山の街は鞍山駅から見て、線路を挟んで西側を鉄西、東側を鉄東と呼んでいるそうです。鉄西には工場地帯と中国朝鮮人街、昭和製鋼所も鉄西にあります。鉄東には駅前商業地と官庁街、東側に日本人街があります。

私たちの住まいの南一條は市役所、警察署を結ぶ道路を一定と呼ぶそうで鞍山駅の南側の一本目の道の二十四番地と言うことになるのです。

←当時の鞍山市南一條24番地の現代の街並み

石畳の道を駅からそう遠くない距離歩くと、社宅に到着しました。

そこは、鉄筋コンクリート造りの二階建てで同じ形の作りになっていて、どこが自分の家かわかりませんでした。このようなコンクリートの家を見たことがなかったので、どの住居も同じように見えたのでした。

24という数字があるのはわかったので、そこが二十四番地だろうと思い、玄関を開けると、どうやら世代道具も揃っていて話通り身体ひとつで住めると言われた通りだと喜んでおりましたら、そこは人のお宅だと言うことがわかり、赤っ恥を書いたところでした。

 そこのお宅は、田所志づさんといって、「昭和製鋼所」の事務をしておられる人のおうちでした。田所志づさんは隣組の班長をしておられ、それからは色々お世話になりました。
満州では、内地と同じように、隣組が組織されていましたが、それは満州国協和会のもとで組織されていました。

そこには「満州隣組の歌」という曲まであったのです。

 ♫    近所は皆朋友

   掲げる日の丸五色旗

   笑顔で廻はす回覧板

   嬉し協和の隣組 ♫

十軒足らずが一単位となったには、情報の通達や結束のために、毎月の「常会」が課せられていたのです。組長は今村金吾という人で、明治二十年生まれの退役軍人の方で、それはそれは頑固な明治男でした。

 田所志づさんは常日頃「今村さんは虫が好かない」と言っておられました。隣組は配給など日常生活の基本単位であると同時に、暴風演習などの「行事」への動員も担っていたのです。

防空日は定期的に行われ「長袖の服にモンペ靴の入れたで出かけないと大目玉です」など様々なことを教えてもらったのです。

防空訓練などでは、今村金吾氏が「ここ満州国では五族協和の理念のもと、畏れ多くも・・・天皇陛下の軍隊であります関東軍が我ら民衆を守ってくれています。我々も銃後においてから、節約に励み満州国防衛のために関東軍と共に戦っていかねばなりません」と演説が始まるのです。

聞いている私たちは「畏れ多くも・・・」が聞こえると「天皇陛下」が聞こえるまでに背筋をピンと伸ばし直立不動の姿勢を取らなければならないのです。

志づさんが今村組長を「虫が好かない」と言っていた訳が私もあとになってわかりました。

 ある時、南一條で満州人の乞食が物乞いをしながら歩いていたのを今村氏が見つけて「ここはお前ら満人の乞食が来るところじゃない、すぐにここから出て行け!」とかなり強い口調で出しているのを見たのです。

とぼとぼ去っていく彼に「お前らは臭いし、汚いんだよ」と追い討ちをかけるように捨てセリフをかけていました。

その時、「この人はずいぶんひどいことを言う人だな、口では五族協和、日本人も満州人も一緒になって満州国を発展させると言いながら、まったくもって思っている事は違うんだ」と痛感させられました。

 そういう五族協和の理念とは裏腹に昭和十九年の満州は戦争の影がすぐそこにありました。

社宅だった鉄筋コンクリートはニ階建てアパートでした。玄関には厚くて古めかしい木の扉があり、ところによっては扉に(めでたい)と赤文字の中国語で大きく書かれている入り口もありました。

住宅前は石畳の通りが続いていて、その石畳の通りから一段上がって直接木の扉を押し開けて玄関に出入りするようにな仕組みになっていました。

住んでみてわかったのですか、駅から遠くない距離に、私たちのような日本人工員が同じような社宅に住んでいるので、みんなは駅から聞こえてくる汽車の音はうるさいと言っていました。

私たちの社宅に内風呂はなく、お風呂は社宅から2 〜3分ほどのところに会社の共同浴場があり、そこを利用するとのことでした。

しかし都市計画には上下水道が組み込まれており、水道はもちろん、内地の一般家庭では珍しい水洗便所も備わっていました。

ただ、冬は水が凍るため、特に寒いは下水や、水洗便所の故障が続出という「文化住宅式の建設の悩み」もあったのです。

 私たちの南一條より北東に10分ほど先にある、昭和製鋼所の日本人幹部の住宅である「三笠街」は高級住宅であり、もちろん家風呂も完備していました。

三笠街だけでなく、私たちの日本人街にもいろいろな物売りが来ていました。物売りが流して歩くのは、中国語ではなく日本語です。

卵、鶏《かしわ》、野菜売りなどの呼び声がありました。ほかに行商で満州人がたち直し、煙突掃除、花、ガラスと様々な商品を流して売りにきていました。

しかしながら、食糧は内地で配給制度が実施されたのに伴い、満州でも主食や調味料は低量の配給制で、月当たり米は4人で3斗、砂糖、酒は一家庭に3升と決められており、野菜、肉、魚、卵などの食料品は公定価格が決められていました。

私の家庭はニ人世帯ですので、その半分の量が配給されていました。
この街は、住んでいるところを言えば、その人の会社での肩書がわかるほどでした。

近所に毛糸屋さんがあって、そこのニ階では編み物も教えてくれました。私も時々、通って少しは編み物も作っていけるようになっていました。

部屋の暖房はピチカです。ペチカの焚き方は習わないとできません。小さく割った巻を並べて火をつけるのです。

上から小粒のコークスを置くと赤熱され、この排熱がペチカ内の煙道をぐるぐる廻って、ピチかの鉄板がほどよく熱せられます。最初は要領がわからず、コークスを置く量が少なくて途中で火が消えてしまい、隣の奥さんに教えてもらったものです。

夜寝るとき、コークスを燃焼室の上まで、いっぱいに入れておけば、朝まで火が持つのです。朝、灰をかき出してまたコークスを上まで入れると、晩ごはん頃まで持続するのです。

 ペチカが最も安い暖房で、満州の冬には欠かせないものなのです。

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