「鞍山(アンシャン)」~私の知らない父の妻、ナツエさんに捧げる物語~ ①   

2024年

はじめに     瀬下 三留

 私は、数十年前からファミリーヒストリーを調べ始めました。まずは、父の戸籍から、と役所へ行き、取り寄せて見たところ、父は戦前、満州の鞍山という地で働いており、そして、私の母ではない「ナツエ」さんいう人と結婚していたことを知ったのでした。

序章

この話は、父深志と妻だったナツエさんをモチーフにした物語です。

「歴史というものは、再吟味とともに、情熱を持つ皮肉屋である」  マーク・ゲイン

新天地へ・・・

 「やっと着きましたね」満鉄の特急「あじあ号」を降りたとたん、川内とは違うにおい、違う大陸の乾燥した空気を感じ、黙ってはいられない気持ちでつい独り言のようにつぶやいたのです。

満洲の十一月は南国育ちの私たちには度肝を抜く寒さでした。

 鞍山駅を出ると前は広場になっていて、中央を広い道路が走っていました。並木道はすずかけの木で、すでに葉は落ちて幹だけが寒々と立っていました。

第一章

川内で

 

 私、井上ナツエは、大正七年八月二十日に、井上盛太郎、カヲの長女として川内の永利村田崎に生まれました。

田崎は、私が生まれるはるか前の明治二十二年に、永利郷に編入されて、永利村田崎になったのです。

私の家は道路から下った窪地にありました。夜明け前には家の鶏が朝を告げ始めます。
その鳴き声が終わりに近づいた頃、家の前の杉の木立から朝日が差し込んできます。

朝は母から「ナツエ、卵取って来い」といわれ、鶏小屋で今日の卵を親鶏からそっと奪ってくるのです。

これが朝の日課です。
このおかげで私たちの貴重な栄養源は保たれていたのでした。
家が窪地にあるおかげで、上の道路まで上るには子供の頃は結構困ったものでした。

でも弟の政盛と二人で下りては上り、上っては下りるという繰り返しを楽しいと思っていたのでした。
家は茅葺きの寄棟造りの家でした。

茅葺きは断熱性、保温性、雨仕舞、通気性、吸音性にはすぐれているのですが、火事に弱いのです。囲炉裏の火にはずいぶん注意されたものでした。

子供の頃は大きい家だと思っていましたが、分別がつくような年頃になりますと、そう大きくないということもわかってきました。

その中のさして大きくない炊事場の土間の先は、道路に続く崖となっており、また縁側周りはさらに窪地になっていて、そこには、竹山や杉山が森林のように広がっていて、子供だった私たちの格好の遊び場でもありました。

 父の仕事は農業でしたが、合間には山仕事もしていました。
五月ごろになりますと、山に杉の枝打ちに行っていました。
子煩悩だった父は枝打ちの様子や山の出来事などを私たちに話して聞かせてくれました。

枝打ちとは、杉の木の下のほうにある枝を刈り取る作業です。
これは、杉の木をまっすぐに成長させるためと、板にしたときに節ができないようにするためだそうです。そうして製材した杉は川内名産の「杉下駄」の材料になったりしていたのです。

 川内は下駄の産地でいろいろな下駄が揃っていましたが、私たちの普段はける下駄は、歯の低い「日和下駄」でした。それもほとんど歯の潰れたような代物でした。

 枝打ちから帰ってきたある日父が「梅がそろそろ採り頃だから、ナツエ、マサ、今度の日曜日に山へ行くか?」と言い出しました。私たちは嬉しくなり、「うん、うん」と大騒ぎしていました。

 梅採りに行く日は、あいにく少々雨模様でしたが、出かけるには支障はなく、七歳と四歳の子供の背中には大きすぎる背負い籠を背負って意気揚々と出かけていったのです。
杉木立をいくつも越え、道にはならない場所に分け入りながら、小高い丘になっている場所に梅の木が植わっていました。

 家から小一時間位歩いたでしょうか、私たちには大変長く感じましたが、着いてしまえばその事はすっかり忘れてはしゃいでいました。父親の指示通り、落ちている梅の実を籠に入れて行きます。そのうち木に登った父が枝から落とす梅も落下してくるので、一緒に籠に入れる手筈でした。

 ずいぶん歩いておなかの空いた私たちは、落ちている梅の実を食べていました。

それを見た父から「落ちている梅を生で食べるな」と突然言われたので、私は「マサちゃん、落ちている実は汚いから枝の実を食べよう」に言って、落とす実を食べることにしたのです。それを見た父が「梅の実は生で食べると毒があるんだぞ」とまた言い出したので、慌てて梅の実を食べるのをやめたのです。

 そうして、2つの籠の半分位に実が溜まった頃、父が梅の木から落下しうめき声をあげ始めました。
ただならぬ父の状況にどうしていいかわからない私は「誰か呼んでこようか?」と父に聞くのがやっとでした。

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