日時:2月4日(土)9時半~12時
場所:かごしま市民福祉プラザ4階活動室1
参加者:10名
「モンゴル抑留体験をした父親の話を聞く」というテーマで、瀬下三留さんさんにお話をしていただきました。2回に分けて記事にしています。
ファミリーヒストリーを辿って
私は父親が抑留経験者で、幼い頃にその時の話をきいていましたが、特に興味が深かったわけではありません。
今から12.3年前に自分のファミリーヒストリーを知りたいと思いまして中世から辿り、公的に辿れる江戸時代の資料を取り寄せ、調べたりしていました。
その中で一番興味があったのが、父親が経験した太平洋戦争、そしてシベリア抑留体験ということでした。それから、県庁の社会福祉課で軍歴証明書などを取り寄せ、調べていくと昭和20年5月15日に満州で召集されているということがわかりました。父は、大正4年生まれですので、その時は30歳でした。
出身は薩摩川内なのに、なぜ満州で召集になったかは、調べるうちにわかったことですが、父親は満州の現在の遼寧省、瀋陽(奉天)より南西115㌔にある、鞍山(アンシャン)に夫婦で居住していました。鞍山は古くからの鉄の街で満州国時代には満鉄子会社の昭和製鋼所の城下町として栄えていて、その地で召集されたため終戦後、武装解除ののちにソ連による「シベリア抑留」されたようです。
私が書き留めたそれらのことについては、「戦争と語り継ぐつどい・かごしま」のブログ記事になっておりますので、読んでいただければありがたいと思います。
映画「ラーゲリより愛を込めて」のシベリア抑留から
今、公開されています映画「ラーゲリより愛をこめて」は、シベリア抑留で戦後11年間抑留されていて、咽頭がんで現地で亡くなり、帰国できなかった山本幡男氏の実話をもとに抑留の真相を描いていました。
山本氏を慕っていたラーゲリの仲間たちが山本氏の命がはかないということがわかった時点で、瀬島龍三氏(小説不毛地帯のモデル)が遺書を書かせて日本に持ち帰ろうとの発案に賛同し、書き物を所持することはソ連の規則に反する大罪のため、ソ連監視人の目を盗んで丸暗記したり、衣類の縫い目にメモを縫い込んだりして、数人で帰国後に家族のもとへ届けた辺見じゅん氏の「収容所から来た遺書」という実話小説です。
私は、父親からシベリア抑留と聞いていましたので、シベリア方面に抑留されていたと思っていたのですが、厚労省や防衛省など、さまざま調べるうちに「モンゴル抑留」者だったということがわかりました。
モンゴル抑留だったというのがわかって、モンゴル抑留をいうものをネットで調べていたら、中京テレビが製作した「77年目の戦争 両足を失った96歳の男性が語るモンゴル抑留の真実」というのを見つけました。
そこの社員がモンゴル出身の女性で、モンゴルに日本人が抑留されていて、働かされていた、ということを全く知らなかったと。その事実を、日本から祖国モンゴルに調べていく、という内容の番組でした。
まず、モンゴル抑留というのがどうしてはじまったかというと、1945年の8月9日にソ連が日ソ中立条約を破棄して、満州国に参戦、進行 その翌日、ソ連と相互援助契約条約を結んでいたモンゴルも参戦してくる。
8月15日に、日本は敗戦になるわけですが、国家建設の必要性をすごく感じていたモンゴル政府は、ソ連に人的労働力を欲しい、と要請する。それから、日本人捕虜を受け入れた。それが、モンゴル抑留の始まりになるわけです。
モンゴル抑留は、ソ連の抑留よりは短くて、2年半で終わっています。その2年間の抑留者数の人数は、中京テレビの放送によると、12,318人、そのうち1615人死亡。
死亡率が13%ですが、この13%は、ソ連の抑留者数約575,000人のうち、死亡者が約57,000、これは約10%なんですけど、その10%にたいしてモンゴルの死亡率が高いです。
モンゴルの研究者の話によると、当時のモンゴルは抑留者の受け入れ態勢が整っていなかったので、夏に捕虜になったのに、冬の装備はなく、冬のモンゴルに連れ行かれ、苛酷な労働につかされた。ソ連は、捕虜に冬服を支給した、と言われているようです。
ソ連の抑留者には、ソ連は冬服の提供をしたが、ソ連より貧国のモンゴルには、その準備がなかったので、冬場の気温-30度から-40度になるモンゴルでは、抑留者が生きていくにはかなり厳しかったようです。
父親の話から
父親の思い出の話の中にこんな一説があります。
同郷出身の戦友が同じ収容所(ラーゲリ)にいたのですが、身体があまり強くない彼は、極寒の作業中に体力が尽きそうになってそのまま目をつぶり始めたそうです。
父は彼の頬を叩きながら、「眠ったら死ぬぞ」と揺り起こしたと言っていました。
どういう作業をしていたかと父の口からは聞いたことはないのですが、調書をとられています。
そこには、木材の伐採だとか、レンガ造りだとかレンガの工場で働いているとか。
ウランバートルの市内に50か所の収容所があったらしいのですが、そこに抑留者が配置されて、造った建造物は壊されてはおらず、今も現存して使われているんです。
モンゴルの首都、ウランバートル市を中心に、ウランバートル市役所、国立中央図書館、オペラバレエ劇場、映画館、証券取引所、モンゴル外務省、モンゴル国立大学など、現在も使用されている建築物を日本人抑留者に対する強制労働により建設させています
捕虜として造らされたんですが、決して手を抜いていない、ちゃんとしたものをつくっている。
それらの建築現場の風景がモンゴル政府に16分の映像がのこされていて、中京テレビで一部放送されていたました。
その番組のタイトルは、「77年前の戦争 両足を失った96歳の男性が語るモンゴル抑留の真実」です。
私はそれを見て、“あぁ、こういう風につくっていたんだぁ”と思ったわけです。
父がモンゴルに抑留されていた、ということをはっきり言えるのは、調べているときに、厚生労働省の援護局から父親の抑留に関する書類が届きました。それは、現地の抑留地で取り調べを受けた調書のコピーでした。
現地の言葉を訳した日本語訳も添えてありました。そこにモンゴル、と書いてありました。
ただし、モンゴル抑留というのは、軍歴には載っていません。
父の話からよくバイカル湖の話が出てきていました。バイカル湖は、モンゴルよりはるか北です。父はシベリアの収容所を転々としていたのか、モンゴルの収容所だけにいたのかはわかりませんが、調書があるのでモンゴルにいたことはだけは確実です。
父が話してくれた話は、モンゴル抑留中のことなのかはわかりませんが、こんな話でした。
食べ物がない中で、雑草を食べる時は馬が食べる草は、食べられる。馬が食べない草は、食べることができない。もし、食べた時は、お腹をこわして下痢をしてしまう。その時に、食べられる草と食べれない草の見分け方を覚えた。
また、「バンドや皮靴は美味かった」と言っていました。「へぇ~そんなものを食うちょったと?」と私は答えていましたが、この頃考えると、抑留地で人が亡くなりますよね、冬場自分の着るものだけでは足りないので、亡くなった人を裸にして服をもらい、バンドや革靴を焼いて食べたんじゃないかと思うんです。
食べ物で言えば、黒パンをすぐ思い出されると思うんですが、黒パンを切り分ける時は、一番耳がいいと、腹持ちが良くて、耳が当たれば、とても幸運だったと思います。
あと、夜、池か沼みたいなところに行って、水筒に水を入れに行ったんらしいんです。夜なので、真っ暗で何もわからない。野営地だったと思うんですが、朝になって池を見てみたら、死体がゴロゴロだったと。
ということがあった、話をしてくれていました。
馬は兵隊よりも大事にされていたようです。兵隊は、一銭五厘の赤紙で呼び出されるわけです。馬はなかなかそうはいかない。なので、馬は大事にされたようです。だから、馬の餌係の人は大変なわけです。
そこから、馬の食べる草は食べられる、馬が食べない草を食べたらいけない、ということを覚えたのでしょう。
②に続く
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