今回は「その⑤」、与論島からの「輿論(与論)開拓団」について触れたいと思います。
「与論島」と言えば鹿児島県の最南端の島で、その先はもう沖縄県です。この南の島からも開拓団が渡満していると言う話は私もかなり以前から聞いていて、高校時代の友人が以前この島に移り住んでいたことがあって、その友人からその話を聞いたことがありました。沖縄県からも多くの満蒙開拓団が渡満していますから、この与論島などからも開拓団が渡満していても不思議はないのですが、最初にその話を聞いた時には、あんな暖かい南国の島・与論島からよくあんな寒い満州へ・・・とやや奇異に思ったことを思い出します。
その与論島(鹿児島県大島郡与論村)からの開拓団、終戦の前年、昭和19年(1944年)に南満州の錦州省盤山県と言う所に入植していっています。
この盤山県は遼東湾に面し(「与論(輿論)開拓団」位置図(南満地区・入植図)、その南西方対岸付近にはあの戦後の引揚港となった「葫蘆島(ころとう)」などが位置しています。
『満洲開拓史』に拠れば、与論島開拓団は在籍572人と比較的規模の大きな団で、うち死亡等非帰還者90人、帰還者482人で、帰還率84.3%と鹿児島県からの送出団の中でもかなり高い帰還率の団です。しかし、同開拓団ではソ連軍新興後の「匪賊の襲撃が激しく」(同書より)、8月19日から22日の間に51名の自決者を出し、この数はこの盤山県に入植していた21団の開拓団(義勇隊開拓団2団含む)の中でも最も多い犠牲者数でもあったと言います(『満洲開拓史』)。
しかし、同開拓団においては570人余の団員を擁しながら、犠牲者等が90人に留まっていると言うのは、旧満州における開拓団の犠牲者数の中ではかなり少ない方であり、それでも盤山県の中では最も多かったということは、やはり相対的位置として南満州に位置していた開拓団の方が立地条件的に犠牲者数が少なかったということが推定されるところです。
『満洲開拓史』に拠れば、同団は「田家鎮」駅(満鉄河北線沿いと思われるが位置等確認出来ず)の東方約12キロ付近に位置し、前記通りソ連軍侵攻後の匪賊襲撃等が激しかったところから、同じ盤山県にあった「鯉城開拓団」に移動してここで終戦の冬を越冬しています。
この「鯉城開拓団」と言うのは広島県広島市から送出の開拓団で、在籍626人と比較的規模の大きな団でしたが、うち死亡者5人、未帰還者11人、帰還者610人、帰還率97.4%とここもかなり高い帰還率の団です。この鯉城開拓団も終戦の年の冬を現地で越冬していますが、与論開拓団の他、やはり盤山県に入植していた新潟県から送出の「新潟開拓団」も受け入れて越冬、家財、衣類、食料等を支給したと『満洲開拓史』には記録されています。
『満洲開拓史』に拠れば、この盤山県に入植の21団の在籍者総数は6,934人、うち帰還者6,406人にて、帰還率は92.4%にて、やはり帰還率が高かったことが判ります。例えば、開拓団の犠牲者数の多かったソ満国境近くの東安省宝清県(ここには阿智郷開拓団なども入植)は義勇隊開拓団、報告農場等含め29団が入植していましたが、その在籍者総数6,749人、うち帰還者2,655人、帰還率39.3%であったこと等に比較しても大きな違いです。やはり開拓団のあった場所等が大きく影響していたことは間違いありません。
『鹿児島県戦後開拓史』(南日本新聞社刊)に拠れば、この与論島からの分村開拓団送出の構想が進んだのは昭和18年(1943年)春からのことで、同年3月には視察団が満州に入り、約1ヶ月間をかけて、同じ鹿児島県の奄美大島から吉林省敦化県に入植していた「宇検開拓団」や、驚いたことに私の両親も後に入植した「水曲柳開拓団」にも視察に回ったと書かれています。
この時、水曲柳で視察したのは当地方(飯田・下伊那地方)からの一般開拓団ではなく、北海道から入植していた「北海道実験農場」であった模様で、そこでは「1戸当り24haにて、馬10頭、乳牛4頭を飼育し、満人苦力2人を雇用し、共同加工所でバターも製造していた」とあります(同書より)。
しかし、実際にはこの北海道実験農場は寒冷地農法の導入を目的として渡満した開拓団にて、一般開拓団とはかなり様相を異にしており、これを見て、満蒙開拓団の標準的な態様等と受け止めたとしたら、それはやや早計であったのではとも思うところです。
しかし、多分は当時、日本国内からの視察団等には、やはり比較的うまくいっている開拓団等を視察地として選んで受け入れていたのであろうこともまたほぼ間違いのないところであったろうと思います。
この視察等を受けて、与論島からの開拓団送出は具体化し、先遣隊は鹿児島県の「満蒙開拓訓練所」が併設されていた同県阿久根にあった「阿久根農学校」(後に阿久根農業高校。現在は統合して県立鶴翔高校)で短期の渡満訓練を受け、昭和19年に前出の錦州省盤山県の二道橋子地区という場所に入植していっています。渡満費用は県(国?)で出してくれたと言い、渡満入植と同時に1戸当り平均5haが無償で与えられたと言います。
そして、この時入手したのはほとんどが既耕地で、入植当時は現地の人々が耕作する畑作主体であったものの、これを「満拓」が強制収用し、これを水田に転作していったと言います。しかし、これは両親のいた水曲柳開拓団でも同様であったそうですが、与論開拓団でも取れた米のほとんどは軍に供出、開拓団員も普段はコウリャンなどを食べていたと言います。
入植した昭和19年のうちに与論開拓団には130戸が入植、入植後間もない昭和19年6月には現地に「与論在満国民学校」が開校され、ここに開拓団の子女43人が入り、複式学級であったとのことです。しかし、戦禍は同開拓団にも及び始め、昭和20年7月6日には同開拓団から最初の「根こそぎ動員」に拠る召集が始まり、最終的には145戸、634人となった同開拓団からは100人が召集、出征して行ったと言います(別途資料では召集は121人とある)。
その中には同団の伊藤佐江吉団長なども含まれていて、伊藤団長はその後にシベリア抑留を得て復員帰国されています。しかし、いつも思うことですが、開拓団の団長などまで召集して不在としてしまい、その挙げ句に、「守ってくれる」と信じていた関東軍は戦略上の理由とは言え、結果として開拓団を置き去りにして密かに南下していってしまった。本当に酷い話であると思います。
8月9日のソ連軍侵攻後、現地暴民等の襲来は南満各地の開拓団でも数多く起きており、与論開拓団でも、8月18日に現地暴徒が襲来、この時、開拓団のうち22名が近くにあった「水泡子」という大きな池に入水自殺を図る等したといいます。そして最終的には自決(刺殺含む)56人、行方不明3人等の犠牲を出し、そのほとんどは婦女子であったと言います。
まだ具体的な裏付け資料等は未確認ですが、当時、旧満州においては、関東軍から「5歳以下の子供は殺せ」と言う命令が出ていたという話を聞いたことがあります。どの段階での、どのような場所での、誰からの発出であったのか等、未確認なので確たることは言えませんが、一部の開拓団の中ではそういったことが伝えられていたと言います。
同開拓団は終戦後、前記通り「鯉城開拓団」で越冬し、犠牲者も出しつつ、翌年の昭和21年6月に葫蘆島より引き揚げてきています(6月2日に博多港に入港との記録あり)。同開拓団の人々は、引揚後、鹿児島県内の各地で戦後開拓地の候補地を探して歩き、最終的には大隅半島の旧田代町(現錦江戸町)に、同開拓団からの引揚者54戸、1265人が入植し戦後開拓の道を歩んでいます。
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