『満蒙開拓つれづれ草』~鹿児島からの満蒙開拓団などーその②~

2022年

鹿児島での講演会は、コロナ禍の中での開催ではありましたが、多くの皆さんに鹿児島からの渡満も踏まえて、満蒙開拓の史実等に触れてもらうことが出来ました。手前味噌の感はありますが、この講演会が開催されなかったら、鹿児島県内でもこれまで余り語られることのなかった満蒙開拓の史実について、私の拙い話を通じてではあっても、県民の皆さん等にこれを知って頂く機会が確実に失われていました。そういった意味では開催に踏み切った主催者の皆さんの英断を讃えたいと共に、そうは言っても、感染拡大の可能性を含んでの開催等については論議のあったところであろうと思います。ただ、幸いなことにこの講演関係でコロナ感染は出ていないということには正直安堵しているところです。

今回はその講演の中で触れた、鹿児島県からの満蒙開拓団の送出状況等について少し触れてみたいと思います。

まず別添の、いつもご覧頂く「都道府県別・満蒙開拓団・送出数一覧表」をご覧ください。これは『満州開拓史』 (1966年刊)よりの引用、作成ですが、鹿児島県からは一般開拓団3,432人、青少年義勇軍2,268人の計5,700万人が渡満となっています。

   (一般開拓団)      (青少年義勇軍)     (合計)   

  3,432 人 (60.2%)  2,268 人 (39.8%)   5,700 人     

     (全国第21位)       (同第16位)     (同第20位)

この鹿児島県からの満蒙開拓団の送出状況の全体像やその詳細等についてもっと知りたく、いろいろと資料、文献等探してみましたが、結論としてはほとんど見つかりませんでした。各県毎で刊行等されている『○○県満州開拓史』等があるのは、私の調べた限りでは、公的・私的出版等含めても27~28県程度と6割程度であり、刊行されていない県が4割もあります。鹿児島県についても県満州開拓史等は刊行されていません。

次にいつも探るのは各県で編纂等している「○○県史」を捲ることです。その中の現代史の部分で満蒙開拓に触れている場合もあるからです。今回も『鹿児島県史』で調べてみたいと思い、いろいろと手を尽くして複数の他県の図書館等よりの貸し出し、取り寄せを受けて、ようやく手にした『鹿児島県史』の現代史編(5・6巻各上下巻)4巻を読み込んでみましたが、鹿児島県からの満蒙開拓の送出のことについては全く記載がありませんでした。

県内外各地での出張講演の際には、なるべくその地域からの満蒙開拓の送出状況等についても触れるべく、事前に関連書籍、資料等を読み漁るのですが、今回のように原則としてその地域の県史、市町村史等の『地域史』は極力読むようにしています。しかし、それらを見てきて明らかになってきたこととして、比較的多くのこれら『地域史』の中で、今回の『鹿児島県史』と同じように満蒙開拓のことには全く触れていなかったり、あるいはごく短くしか触れていないと言う『地域史』も少なくありません。

勿論、古代等からの長い歴史スパンを扱う中で、比較的現代の、それもごく短期間の歴史である「満蒙開拓」については総体的な位置づけからすると取り上げが少なかったり、全く触れていないことがあったとしてもそれはある意味当然のことかと思います。しかし、鹿児島のことを取り上げて申し訳ありませんが、前述の『鹿児島県史』の現代編においても、太平洋戦争と鹿児島県の関わり等については比較的詳しく記述されており、旧軍関係のこととか、島嶼部とうしょぶを含む鹿児島県内での戦災等については相応の字数を割いているのに、満蒙開拓については鹿児島県からも5,700人もが渡満しているにも関わらず、これには全く触れていないということにはやはり不自然さ、奇異感を感じざるを得ません。

前記通りの全国20位という鹿児島県からの開拓団の渡満、そして犠牲は決して小さな歴史等ではなく、やはりそれなりの記載はあっても然るべきものと思います。『鹿児島県史』だけでなく、他の「地域史」等の中でも、満蒙開拓に関する記述が、その犠牲の大きさの割には総じて乏しいこと等を見るに、やはりこの満蒙開拓と言う歴史は戦後、向き合うことの難しい不都合な史実として、意図的に、あるいは潜在意識的に取り上げられることの極めて少ない歴史であったのだということを思わざるを得ません。

6巻に及ぶ『鹿児島県史』自体は極めて貴重な史料であることは言うまでもありませんが、その現代編での編集に際して、満蒙開拓に関してはその記載等について何らかの議論はなされたのか、あるいは最初から俎上にも乗らなかったのか、その辺りを知りたいものとは思いますが、残念ながら、そのことは鹿児島県内の皆さんにお任せするしかないかと思います。

さて、前段が長くなってしまいました。かくして、鹿児島県からの満蒙開拓の送出についての全体像等については調べることが出来なかったものの、いつももう一つの手がかりとして活用するのはいつも引用する『満洲開拓史』です。この本の221~226頁には、各県別の「分村・分郷開拓団」の一覧表が掲載されています(写しを別添)。正直、ここには記載の漏れている団も少なくなく完璧なものとは言えませんが、各県別の分村・分郷開拓団等を知る上では大きな手がかりとなります。因みにここでは鹿児島県からは3団の「分村・分郷開拓団」が掲載されています。

次いで、やはりこの『満洲開拓史』の後半の508頁以降に詳述されている、当時の旧満州の省別に詳述されたソ連軍侵攻後の避難状況等についての「各省別開拓民避難状況」の章がとても参考になります。ここでは省別に、かつその中の各県別にそこに所在した開拓団毎の在籍者数、出征者数、帰還・非帰還のそれぞれの数などが記載されています。これは極めて貴重な史料です。しかし、当時、日本から渡満していった満蒙開拓団は「義勇隊開拓団」(青少年義勇軍として3年間の現地訓練を終え開拓団に移行した団を言い213団があった)を含めると912団を数えますから(末尾参照)、これらを具(つぶさ)に見て行くことはかなり骨の折れる、時間を要する作業でもあります。

今回もかなり手数のかかる作業ではありましたが、この省別・県別の開拓団一覧表を具に見て行き、その中から鹿児島県内から送出の6つの「集団・集合開拓団」(末尾で説明)を拾い出すことが出来ました。それを基に私の方で作成した一覧表が別添の別表-2「鹿児島県より送出の満蒙開拓団・個別一覧」です。県内の出身地域等についても追加調査等し付け加えました。当時の郡、町村名や、現在の市町村名等とは違っている場合も少なくないので、これも比較出来るように追加調査してあります。

ここに掲載してある6団の概要は以下の通りです。

      (開拓団名)        (送出地区)   (入植地)  (在籍者) (帰還者) (帰還率)

 ① 「伊漢通いかんつう」※    大島郡等 三江省方正県  671      169     25.2 %

 ② 「隼人はやと」      肝属郡  吉林省盤石県   81      69    85.2 %

 ③ 「半截河熊毛郷はんせつがくまげごう」  熊毛郡  三江省鶴立県   110         80     72.7 %

 ④ 「敦化宇検とんかうけん」  大島郡宇検村 吉林省敦化県  324       162    50.0 %

 ⑤ 「輿論(与論)よろん(よろん)」  大島郡与論村 錦州省盤山県    572       482    84.3 %

 ⑥ 「大羅勒密竜郷村たーらみ たつごうそん」」 大島郡竜郷村 三江省方正県   236         66     28.0 %

                                (上記暫定6団小計)     1,994    1,028     51.6 %

※.「伊漢通」開拓団は鹿児島県奄美地方、沖縄県からの混成開拓団であり、ここでの団員数等は鹿児島県送出分の団員数と推測。

以上の6団だけで在籍団員数は計1,994人となり、『満洲開拓史』に拠れば鹿児島県からの一般開拓団は前記通り3,432人となっていますから、この6団だけでその約58%を占めることになります。

これらの調査の中で判ってきたことの一つとして、鹿児島県内から送出の開拓団のうちのかなり多くを奄美大島や与論島などの島嶼部からが占めると言う実態です。出身地区別に見ると以下の通りとなります。これらの分村・分郷開拓団のうち、鹿児島県内の本土からは大隅半島の「肝属(肝付)郡」(きもつき・ぐん)からの「隼人(はやと)」開拓団だけで、他の5つは全て島嶼部からの送出となっています。

       (開拓団名)         (送出地区)  

 ① 「伊漢通」※    大島郡 (奄美大島) 

 ② 「隼人」      肝属郡 (大隅半島) 

 ③ 「半截河熊毛郷はんせつがくまげごう」  熊毛郡 (屋久島、種子島)

 ④ 「敦化宇検」       大島郡宇検村 (奄美大島)

 ⑤ 「輿論(与論)」    大島郡与論村 (与論島)

 ⑥ 「大羅勒密竜郷村たーらみ  たつごうそん」 大島郡竜郷村 (奄美大島)

これらの個々の開拓団の詳細等については次回以降でまた触れていきたいと思います。

※.「集団・集合開拓団」等の分類と開拓団数について

 満蒙開拓団の分類の仕方にはいくつかありますが、開拓団の規模的、移住形態的な観点から分類されていたのが「集団・集合開拓団」等の分類です。

 「集団開拓団」は当初段階では200~300戸の規模(後には50戸以上)で独立村を構成する開拓団を言いました。これには昭和7年(1932年)送出の第1次から昭和20年送出の第14次までがあります。

 次いで、これより小さい規模の団として「集合開拓団」があり、30~100戸にて50戸程度を標準として部落を構成する開拓団を言います。「集合開拓団」と言う分類は昭和15年(1940年)を第一次として昭和17年の第三次までの間だけの分類となります(後記通り昭和18年度からは集合開拓団の分類は廃止)。更にこれ以外に既設の開拓団の近隣等に縁故開拓団として入植した「分散開拓団」がありました。

それぞれの開拓団数は以下の通りです。『満洲開拓史』より)

  集団開拓団 695 (うち一般開拓団等482、義勇軍開拓団213)

集合開拓団 123 

分散開拓団  94

計          912

なお、「集団開拓団」には「一般農業開拓団」の他、「転業開拓団」、「義勇隊開拓団」等を含んでいます。また、比較的初期段階で渡満した「自由移民開拓団」は原則として「集合開拓団」に含まれていますが、開拓団員数の小さい場合には「分散開拓団」とされていました。両親らのいた「水曲柳』開拓団」もこの自由移民開拓団でしたが、分類上では「集合開拓団」とされています。

また、このうちの「集合開拓団」は昭和18年度からは廃止され、50戸以上の開拓団は全て「集団開拓団」に分類されるようになっています。

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