「鹿児島ぶら歩き」ー昭和20年 鹿児島市内の空襲があった回数ー

2022年

鹿児島市が昭和57年3月20日に発刊している「鹿児島市戦災復興誌」やインターネット上での「総務省 :鹿児島市における戦災の状況(鹿児島県)の記載によると、『昭和20年3月18日から8月6日の計8回の空襲である・・』と書かれてあります。

しかしながら、数年前の南日本新聞の記事や先月6月17日に開催された「生協コープ6・17平和の集い」の講演会で話された鹿児島大学特任教授の江山さんも、空襲の回数は10回、と言われていました。

下記の記事は、2020年6月19日のブログ「鹿児島ぶら歩き」さんから了解を得て、転載させていただいております。現在も米軍資料を読みながら調査を進めておられるとのことです。

通説として固定化されたデータに疑問をもたずに、それが正しい、と思い、受け入れてしまう。
実は、そのような有り様ががとても危険なことなのではないかと教えられます。

すべての記事を掲載してはおりませんので、「つづき」は鹿児島ぶら歩きさんのURL
をクリックしてください!(^^)!

鹿児島市の空襲は8回だったろうか

2020年06月19日

本日、6月18日付毎日新聞19面に、鹿児島空襲に関する記事が掲載されていた。昭和20年6月17-18日に行われた、いわゆる鹿児島大空襲の記事である。鹿児島市下荒田町の被害に関する記事を準備していたのだが、毎日新聞や朝日新聞、南日本新聞の記事を読んで思うところがあり予定を変更することにした。

鹿児島市の空襲について感心のある方には、考えて欲しいことである。
3紙ともに共通するのは、「鹿児島市の空襲は8回」としていることである。「上町空襲の記事を読んで」に記したのだが、筆者は空襲の回数について疑問を持っている。

『鹿児島市史Ⅱ』と『鹿児島市戦災復興誌』によれば、鹿児島市の空襲は、昭和20年3月18
日、4月8日、4月21日、5月12日、6月17-18日、7月21日、7月30日、8月6日の8回とされている。
だが、戦争体験談を読み進めるうち感じるのは、機銃掃射に関する記事が多いことである。
空襲の回数は、8回より多いのではないか。漠然とした疑問をいだいていたのだが、2つの資料によって8回を超えることがわかってきた。
ひとつ目は、アメリカ戦略爆撃調査団の資料である。「空襲被害資料(長崎及び鹿児島)」がある。

同調査団の質問に、門司鉄道局鹿児島管理部が作成した資料のようである。同資料のほかに、鹿児島駅と貨物駅の地図や戦中・戦後の列車の稼働表などもある。
「空襲被害資料(長崎及び鹿児島)」に、6月7日と7月17日の空襲による鉄道被害が記されている。とくに7月17日の空襲では、城山隧道西口の土砂が崩れ、隧道内に亀裂が生じたとある。

 二つ目は、日本専売公社鹿児島工場が編纂した『鹿児島工場のあゆみ』である。
昭和20年10月27日、空襲で亡くなられた職員の慰霊祭が西鹿児島工場で行われたそうである。戦災殉職者52名。慰霊祭で鹿児島専売局長が読まれた祭文が掲載されている。

鹿児島市ニ対スル敵ノ空襲ハ沖縄決戦酣(たけなわ)トナレル三月中旬に始マリ、其ノ後十数回ニ及ビタルモ市街地ノ初ノ攻撃ハ四月八日ナリ、此ヒ日ノ投弾ハ小型弾ナリシモ警報ノ不首尾ノ為メ意外ノ犠牲者ヲ出シ、〇〇〇〇外三名ハ不幸ニシテ此ノ厄ニ遭ヒタリ(以下省略)
※〇〇〇〇は個人名が記されているため、筆者が〇に改めました。読みたい方は原本でお確かめください。

 祭文にある通り、3月18日以降、空襲は十数回に及んだとある。専売局栄町工場は7月27日の空襲で壊滅的な被害を受けたため、ほとんどの資料は焼失したかもしれない。だが、殉職者の氏名と人数だけはしっかり管理されていたようである。

筆者はB29の作戦任務報告書と戦争体験談を中心にして鹿児島市の空襲を調べている。艦載機の報告書も目を通し始めたから、米軍資料から分かってくるかもしれない。残念なことに、沖縄を拠点とする第7航空軍、第5航空軍の資料を持たぬから空襲の全容を知るには限界がある。 (つづく・・)

記事のつづきは、右文字上をクリックしてください。「鹿児島ぶら歩き」
サイドバー(右側)にも、表示してありますので、お立ち寄りください!(^^)!

コメント