「自分の家が焼けていく 昭和20年7月31日の空襲」 2015年9月30日(木)

2015年

昭和20年7月31日の空襲で自分の家が焼けていく様子を、自分史に書かれているYさんにお話を伺いました。

下記は、Yさんの自分史より抜粋した文章です。

Yさん プロフィール

昭和10(1935)年 鹿児島市池ノ上町に生まれる

昭和17(1942)年 清水国民学校に入学

昭和20(1945)年 7月31日 空襲で自宅を焼失

小学校中学校での学校生活

3年生になって、戦火がだんだん本土に迫ってきた。授業も少なくなり、学校から3~4キロ離れた学校農園の葛山や寺山にから芋などを植えに行くことが多くなっていた。収穫期の秋には、から芋堀りがあって、その芋を大きな釜でふかして昼食として食べた。

食糧難の時代であったので、とても美味しく頂いた思い出がある。食糧難といえば、当時学校の運動場の大部分は畑になり、じゃが芋やなす、トマトなどを植え、最後は麦まで作った。

畑の肥料にするため、馬糞拾いや木灰集めがあった。馬糞拾いでは、馬がよく通りそうな場所を探し歩き、道路に落ちている馬糞を見つけると、競ってバケツに入れていた。現在の祇園之洲の旧営林署跡地(当時は営林署の貯水場)付近を丸太を積んだ荷馬車が往来していたので、よくそこに行き、馬が排出するのを待ちかねた様にして、湯気のたつホカホカの馬糞を拾い集めた。

また、木灰集めでは、灰を入れるバケツを持って隣組の各家を周り、台所のかまどの下から灰をかき集めて回ったものである。
学校の正面の入り口には、チャーチルやルーズベルトを形どった等身大の藁人形が立てられ、校門をくぐる度に「エイ」といって、こぶしを殴って登下校していた。今、考えると実に馬鹿げたことをしていたものだ。

4年生になると、一段と戦局は不利になり、市内も再三、米空軍の空襲を受けるようになった。
登校しても、すぐに無気味な「ウー、ウー」という警戒警報のサイレンが繰り返し鳴り、授業もそこそこに防空頭巾をかぶって下校した。

市街地の空襲

昭和20年3月から米軍による本格的な本土空襲が開始された。それ以後、鹿児島市は本土の最前線基地とされ、また、米軍の本土上陸の予定地をされて
縄方面からの空襲が激しく、前後8回にわたる空襲によって、全市は文字通りは灰燼に帰し、市街地の約90%を焼失した。

記憶に残る空襲をあげてみると、まず昭和20年4月21日に平之町一帯にB29が時限爆弾を投下した。父と兄の二人が現地をすぐ見に行き、私たちにその悲惨さを話してくれたことを覚えている。

次に、6月17日の市内一円の大空襲。市内の各地に多くの焼夷弾が投下され、死者2,316人、負傷者3,500人もの大きな被害であった。
私は庭のきゃしゃな防空壕の中から見た真っ赤に焼けた夜空の光景は、今でのはっきりと目に焼き付いている。

更に、7月27日鹿児島駅を中心にロッキードF38が兵隊を満載していた発車間際の列車を爆撃し、数多くの兵隊が犠牲となった。

鹿児島駅近くの踏切周辺に爆風で上半身は衣服が剥され、脚に巻いてゲートルだけが残っている兵士達が足の踏み場もなく仰向けに倒れて死んでおり、その光景はまさに戦場そのものであったと、現場を見た父は話していた。

自宅が焼かれる

最も忘れられない空襲は7月31日であった。その日は朝から断続的にB24が上空を舞い、近くに1トン爆弾を落とすなど激しい空種が続いていた。
午前11時30分ごろ、清水小学校付近に投下された焼夷弾から火の手が上がり、瞬く間に次から次への人家に飛び火した。

我が家では昼食後「火がこちらへ来そうだ、危ないので道具を運び出した方がいい」と父が判断して山際の墓地に道具を運び始めた。
その後、周辺の家も次々と道具を運び出した。ほぼ、運び終えた頃、ついに一番山手にあった私の家に
火がつき最後に燃えてしまった。

かつて町内会で行っていた防火訓練バケツリレーなど)もこうなっては何の役にも立たず、ただ、自分の家が燃えるのを手をこまねいてながめているのみであった。
この時ほど、残念に思ったことはなかった。

8月15日 終戦の日

戦争が終わったことを知ったのは、8月15日のお昼頃であった。直接、ラジオの放送を聞かなかったが、草牟田墓地の付近で父から聞かされた。

なぜ、草牟田墓地付近にいたかは定かでないが、7月31日に我が家が焼失してから、しばらく草牟田の叔母(母の妹)の家の裏山にあった横穴の防空壕に仮住まいし、その後、近くに一軒家を借りて、生活していたので、恐らく当時は、お盆で草牟田墓地の墓参りに行っていたと思う。

敗戦を知らされて、さすがにがっくりした。というのも、日本は絶対に負けないのだと小さい頃から言い聞かされていたし、事実これまで苦戦はしていても戦争に負けたことはなかったので、そう信じきっていたからである。

これから先、日本はどうなるのだろうか、自分たちはどうなるのだろうかと子供ながら心配であった。
                                   (Yさん 自分史より)

時を経て・・・2022年

Yさんから直接お話を聞いたのは、2015年と2016年の夏、2回です。
ご自分の家が焼けていく様を、淡々と話されましたが、燃えていく様を何もできずに、唯、見ておくしかない。

文中では、「残念」という言葉で表現されておられますが、その時の心中は、筆舌に尽くし難いものであったであろう、と想像します。

日本では、空襲被害に遭われた方々が政府に空襲被害で受けた保障を求める裁判をしておられます。
戦争によって被害を受けるのは、一般市民なのですが、そのことを今の国民が過去から学ぶことが出来ているのでしょうか。                            文責:山下春美

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