福留利光氏の「中国従軍日記」から読み取れること2021年 6月26日(土)

2021年

2021年3月16日の南日本新聞に「亡父の中国従軍日記 発見」という記事が掲載されました。
その記事に関心を持った田頭壽雄さんが、知人を介してその日記のコピーを入手され、手書きで書かれた日記を、現代文に転写され、私たちがスムーズに読むことができるように作成してくださいました。

田頭さんより、「この日記には、今の私たちが知るべき大事なことが書かれてあります」と、連絡を頂き、話をしていただきました。

配布された日記の資料を区切りながら、音読し、読んだ部分を田頭さんが解説していく、という流れで進めていきました。最後に参加者の感想を聞きました。

上記の文字上に、カーソルを置いてクリックしていただくと、当日の詳しい配布資料をご覧になれます。 配布資料の日記に表記されている数字と、考察の数字は対比しています。

日記を読む 解説

この日記は、良いことも悪いことも多く書かれている。苦労したことや偉かったことなどが書いてある日記が常だが、この日記は違う。

戦地に行かされたと思う。そして、幸いに帰って来れた。

娘さんの中学時代の英語のノートに書いてあった。
娘の福留光子さんは、皆さんに詳しく伝えてほしい、と言われた。

福留利光氏の紹介

南九州市頴娃町上石垣福留集落出身。「生育歴から始まり、1944年召集(20歳)、熊本第六師團、輜重隊しちょうたいに入隊。翌年21歳(1945年)で再度召集、熊本山砲聯隊さんぽうれんたいに入隊、満洲から中国南部の汕頭(スワトウ)まで列車や船で移動した経験」の帰還後の日記。1997年に74歳で死去。古い机の抽斗から娘・光子さん(65)が発見、B5版、19頁

英語のノートに書かれていた日記

昭和5年 小学校入学昭和12年 小学校卒業
昭和12年 大阪に就職
昭和14年 退職
昭和16年 飯塚の炭坑に行く
昭和17年 退職、その後、義兄と土方並びに鍛冶、飯場暮らし。 

そのうち、徴兵検査、第一乙種「乙種第一」甲種でなかったのが残念であったが、今、思えば何でもないことである。
敗戦のためであろうか、土方をやめて、義兄の家で鍛冶をやる。

 昭和十九年三月、一回目の召集令が来る。熊本第六師團、輜重隊(しちょうたい)に入隊。その間、一ヶ月の教育。普通は三ヶ月であるが、戦争が激しくなったので、三ヶ月間も教育しておれなかったとかで入隊した。午前中は普通の生活であったが、午後からは、軍隊独特のビンタが飛び出す。日が経つにつれ 段々と厳しくなる。どの初年兵も顔が逆三角になって来る。時には、顎が外れる人もいる。初めて見た。癖になるらしい。殴られる時には「歯をくいしばれ」と言われる。そうしなければ、外れる。部隊長の訓示で、逃亡又は自殺などをしないように言ったが、他の中隊で、自殺者が出た。何でも便所で死んだらしい。自殺者が一番多いという。逃亡者は少なくないらしい。六師団は昔から日本一と言われる。軍隊教育の烈しい所と言われて、それなりに戦も強かったと言われている。

 四月、招集解除。感想―「初年兵にとっては、ただ地獄」、「古参兵は極樂」と言う人もおるとか。)

輜重隊とは兵站へいたんなどの後方輸送をする部隊。戦隊の物資の供給をする最も大事な部隊でありながら、
日本軍は、この部隊を軽視していた。その典型例として、西南戦争の薩軍やインパール作戦である。

昔、父から『輜重輸率が兵隊ならば、チョウチョ、トンボも鳥のうち』と教えられた。
蔑視な歌であり、大事な仕事をバカにしている。
現代でもホワイトカラーが尊重されて、ブルーカラーの仕事を、下に見る傾向がある。

六師団とは、熊本・大分・宮崎・鹿児島の九州南部出身の兵隊で編成された師団。
甲種合格は、『立派な男』という価値観の刷り込み、だから、甲種でなかったことは、残念だったと言っている。乙種の人も志願すれば、兵隊になれると聞いていたが、志願しなくても召集されている。

この頃には、甲種・乙種などそれどころではなかったのだろう。1943(昭和18)年頃から臨時招集された。選んでおれない時。

初年兵にとっては、地獄。古参兵は、初年兵をいじめておけばよいという感じ。

臨時召集補充兵として二十年一月十三日 二回目の召集。熊本山砲(さんぽう)連隊(れんたい)に入隊。防寒服と兵器、その他、カンパン、カツヲ節等を貰う。三、四回、予防注射(接種)。門司から釜山へ。釜山の町で、スルメ等を買いこむ。時々、スルメをちぎって食べる。釜山の港にニンジンか陸上げされてあったので食べたが中は氷で味もなかった。川も凍りついていた。

 列車に乗せられ満洲へ。汽車が奉天に着くまで一回、馬番についたが、馬六頭を見なければならない。勤務時間は忘れたが、一時間か二時間であったであろう。その時の冷たいのが、今でも忘れられない。防寒靴下と軍足三枚を履いていたのに貨車の中で足踏みをしなければならなかった。

夜、奉天に着いた。初めて列車をおりて、飯盒洗いに出た。飯盒が手にベタベタとつく。気温は大分下がっていたのであらう。風はなく、空気が重く、静かに、のしかかる感しで寒いとは余り思わなかった。ここが満州かと思った。私達は防寒服を渡されたので、皆、満洲行きと思っていたが、汽車は、いつまでも我々を降ろす気配がない。時には、外の様子は、全然、見えないようにしたりしながら汽車は走り続ける。我々は、大概の人が時計を持っていないので、時間の観念が全くなかった。どこを、どう走っているのか分らないが、中国の風景が窓越しに見えるので、珍しくて、退屈はしなかった。我々は、時々、隠れてカンパン、カツヲ節等を食った。時には食ったのを下士官に見つかり、ビンタをはられた。古参兵等は「お前等、食べ方の要領が悪い」と言う。古参兵は自分の物は食わずに、初年兵に、それとなく要求してくる。今日は何日か、という日々も分らなくなって来た。

 突然、「万里長城」と言うので、外を見ると右側の山の上に、絵等でよく見る風景が見える。山海関さんかいかんという所だと言う。時々、体が痒くなる。召集されてから、風呂にはおろか体も拭いたこともない。シラミがわいてきた。軍隊にシラミは、つきものである。列車内では、兵器の手入等、やかましく言われる。一日、何回か軍隊教育がある。相変わらず上官の目を盗んで隠れ食いをする。段々、大胆になって来た。私は中国の景色を見ながら旅行気分である。(時々、その気分であった)。木はあまり生えてはおらず、冷え冷えとした所である。そんな中に泥で囲った民家が、ひと固まりになって、所々、牛の糞を家の周りに付けている。燃料にするという。

夜になって、大きな街に着いた。汽車は大分、長く止まっている。今まで、こんなに長く止まったことがないので、我々は、ここで降りるのかと思ったが、古參兵が「各自の装具の点検をして置け」と言い、古參兵は「この街は済南さいなん」と言った。ここで降りるかと訊いたが曖昧であった。外を見ると、大分、賑やかな感じであった。

中国独特の服装が目につく。綺麗なクーニヤンや、上と下が繋がった中国服の男の人が、いかにも街の人といった感じであった。今まで通った所でも、多少は、こんな人達がおっただろうが、町が小さいのと農村地帯で華やかな感じはなかった。この地の町で初めて米の飯を食った。汽車は、又、走り出した。

何日、何時間、走たのか分からないが、ある日の夕方浦江ほこうに着いた。揚子江から見える対岸は南京である。ここから舟に乗るのである。川でなく海という感じで浪が立っている。対岸まで二キロぐらいあると思つた(濁っている)。黄河はいつ渡ったか、分らないから夜だったのであろう。揚子江は、橋を架けられないかも知れない。南京の灯が大都会という感じで見える。舟から渡り、夕暮れの街を横目で見ながら、宿舎に向かって進む。南京に一日、二日おったように思う。ここで慰問袋を貰った。中には、励ましの手紙や数珠玉、針・糸等が入っていた。手玉が五、六個あったので、これで遊ぶわけにもいかないので、戦友たちに見せたら、古參兵が一つ破って中を取り出したら、煎り大豆であった。古參兵等と別けて食ったりした。我々は、どこに行かされるのか、さっぱり分らない。ここに落ち着く様子もない。ただ、兵器の手入れやシラミ捕りをするだけで、洗濯をした覚えがない。

中国に入るには、下関から釜山、満州、奉天ルートは、お決まりのルートである。
また、下士官からビンタをくらっている。軍隊特有のものだ。

山海関さんかいかん』は、東側を「関東」という。そこに駐留していた日本陸軍の関東軍の名称はここに由来する。

私は、シラミは経験はないが、ノミならある。小学校6年生の時に結核にかかり、
長期欠席をしたことがある。医者が、結核は進駐軍がうるさいから、慢性気管支炎と書くからと。休んでいる時、毎朝起きたら、おふくろと布団のノミをとるのが日課だった。

軍隊は、どこに行くのか知らされていない。知っているのは、ごく一部の上官ぐらいではないだろうか。

又、気車に乗せられ、上海に行くとの噂が出た。南京から上海までの間は田圃ばかり、一望千里という思いであった。途中、蘇州夜曲のお寺を見た。鉄道近くにある。付近は田圃ばかりで松等があり、池もあるらしく、綺麗な太鼓橋らしい橋も見えた。田圃の中のお寺という感じである。上海に着く。宿舎は高等学校であった。四、五階建てであったように思う。机や椅子はなく、ただ教壇だけが残されていた。上海に十日か、二十日ぐらいおったように思う。毎日、何をしたか忘れた。全部が夢をたどって書くようなものである。ただ、上海は洋式の建物が多い所、我々がいる所は港湾(キャワン)という所であった。近くに印度大使館らしい建物があり、頭にターバンを巻き、色の黒い目のギョロッとした、背の高い兵隊が守っているのが印象的であった。

 私は出征の時同じ村内の松窪という人と一緒で中隊も同じであった。他にも同じ村で二人いたので、私を含んで四人いたが、大隊は同でも中隊が別であったので、その二人はあまり知らない。ある時、松窪と二人で上海の街を歩いていると、饅頭等を並べて賣っている店があった。内地では甘い物等、仲々、口に出来ない時代であったので、一皿づゝ注文して食った。普通の大きさの饅頭が六つあった。値段は六百円という。私達も、これには驚いた。内地を出るとき十円持って来た。中国に入った時、金の変還があった。十円が、確か三百円であったように思う。内地では十円は大金であった。金は足らないので、私達は食い逃げするしかなかった。「茶を持って来い」と言って、取りに行った間に逃げた。店の人が後に見えた時には三十米ぐらい、離れておった。私達は走っては逃げない。急ぎ足で逃げなければ目立つので、もし他の兵隊(上官)見つかったらひどい目にあうから、店の人が見えたので、急に、ほかの露地を曲り曲りして逃げ延びた。金の値打ちのないのに驚いた。今の日本と同じある。

 上海の港での梱包監視に行く。広い岸壁に幾つもシートで囲った山がある。色々な物品があるという。食料もある。梱包してあるので手を突っ込んで取る事が出来ない。我々は兵長以下五名で六つの山を巡回して監視した。兵長はシートの中に潜り込み缶詰を取って来た。みんなに一個づゝ分けた。牛肉の缶詰である。我々は要領よく巡廻しながら食った。みんな腹が減って食うことだけしか考えないので、牛肉は内地でも余り手が出ない物であったから有難かった。軍隊は辛いが、内地では口に出来なかった物が、少ないが色々と口に入る。だが監視とは品物を盗まれないためにある。盗人に監視させているようなものである。兵長が言うには「中の品を取っても箱だけ残せばよい」と。とにかく「空箱でも数が揃えばよい」と言うのである。兵長は、時々、シートの中に潜り込む。私も一緒に潜った。帯劍で、こじ開けて取る。皆も、それぞれ三個か四個ずつ取った。あとは元通りに直した。カンパンもあったが鍼力(T・しんりき? は針治療も意。誤字なのか、「厳重な梱包」の意味のようだが?不詳)の箱で取れない。こんな訳で梱包が前線へ着いた時に、中は少なくなっているのだという。それは、特に食料品等が多いらしい。前線におる者が馬鹿を見る。

日本の10円が中国の300円のレート、30倍。饅頭1個が100円、この饅頭の値段は、どう解釈すればいいか、日本人とみて吹っ掛けられたのだろうか。10円は大金という感覚である。

牛肉の缶が送られてきている。内地では我慢して、戦地に送っていた。
箱を残す、箱の数が揃えばいい、という形式論、日本軍国主義の実態を示す一つの言葉。

饅頭食い逃げのことは、軍隊ではよくあるようだ。この日記には、食べ物のことがよく出てくる。それほど、腹が減っていたのか。テレビでも食べ物の番組をよくやっている。人間の基本だから関心があるのか。

港に大きな倉庫がある。そこの便所に行ったが、中は糞が山盛になっていた。どの便所も同じである。寒いので盛り上がることが出来たのであろう私はしゃがむことが出来ないので、仕方なく戻って、近くの小さな草藪で用を足した。

 私達は小人數で、度々、外出した。何のため、何の目的で出たか忘れたが どこへ向かっても珍しく見える。大きな舗装道路を、白人や、時には黒いのやら、中国の兵隊か警官か分らないが、色々な人種が行き合っている。―「高いビルが建ち並んだ所から、少しはなれた所等には、薄よごれた家が建ち並び、その前には、また、薄汚れた人々が、うろうろしてビル街とは、又、違った珍しさがある。―」(青字の部分は四角で囲って大きく×印が書いてある。つまり削除) 邦人や將校等は何となく威張ったような感じがして、余り好感は持てなかった。私達の引率者は、將校が来ると、「又、馬鹿が来やがる」と言う。敬礼がうるさいからである。そんな訳で、なるべく裏道を行く。我々は兵舎においても、演習もしたことはなかった。ただ、目的もなく動(うご)いているだけのように見えた。門司港から船に馬や車両砲等を積み込むのを見たのに、我々は汽車の中で馬当番についただけで、その後、それ等は見た事もなかった。

宿舎から少し離れた所に馬糧倉庫があった。ある夕方、私達二、三人は、そこに忍び込み「とうもろこし」と岩塩を盗み、出ようとした時に倉庫番に見つかったが、その人は軍曹であった。「貴様等どこの兵隊か!」と言いながらどやしつけた。その後、軍曹は笑いながら「そんなに腹がへるか」と言う。「貴様等は馬の食料を横取りしたら、馬が腹がへるぞ」と言った。「こっちへ来い」と薄ぐらい所へ連れて行かれた。これはえらいことになった、と思った。そこは小さな事務所らしい所であった。上等兵と一等兵が机に座っていた。軍曹は「鼠(ネズミ)を捕まえた」と言っていた。私達は飯盒に盗んだまま立っていると、「食いたいか」と言うので、「もう食いたくありません(もうよい)」と言えば「遠慮するな」と言って、事務所横の空いた所で火を焚くのを許した。そこで飯盒に、とうもろこしを入て煎った。我々は、どんな酷い目に遭うかと、おろおろするばかりであった。そこで軍曹等は、私達に「食え」と言う。恐る恐る私達は食う。内地のことを色々聞く。皆、内地のことが気になるらしい。軍曹が、優しかったのは内地のことが聞きたかったためであったのであらう。煙草を一本づゝ吸わせてくれた。

 我々の大隊は右田隊と言って、隊長はだいぶん、歳がいっていたように見えた。大尉である。この大尉も召集されたのかも知れない。全員の總具検査が始まった。その後、今まで着てきた防寒具は夏服と交換した。新たに、カンパン等が支給された。 隊長は、「我々の行き先は汕頭(スワトウ)である」と言った。「スワトウというこんな□(判読できない文字)が南方のどの辺にあるか」と、皆、言いながら自分の總具の点檢に余念がない。聞いた話によれば輸送指官でも、目的地に着くまでは絶えず、無電で動かされているから分からないのだという。

 我々は夜中に港に向った。真冬の一月、二月に夏服であるから、たまらなく冷たい。日本のように風がないので冷たい感じが先に立つ。

舗装道路、とよく出てくるので、道路の状態に関心がある。

筆者が宮田大尉も召集されたのかもしれない、と感じたのは、年配であり、最終的に人的資源が足りなくて召集され尽くす状態を知っ ていたからだろうかと思う。

日本軍は、言葉の言い換えをしている。全滅は、玉砕。敗退は、転戦のこと。
輸送指揮官でも無電で動かされているので、よほど味方から漏れることを恐れていたからだろう。

「冷たい感じが先にたつ」(地図参照)とは、リマン海流のためで、間宮海峡付近からユーラシア大陸に沿って日本海を南下する海流(寒流)。日本海を北上する暖流の対馬海流が北上するにつれて冷やされ、アムール川の淡水と混ざり、南下するようになったものであるとされる。

「リマン」とはロシア語で大河の河口(三角江)を意味するが、この「大河」はアムール川を指す。 樺太(サハリン) の南西から沿海州に沿うようにして進む、朝鮮半島の北東 (北緯40度あたり) までの海流である。朝鮮半島に当たったリマン海流は朝鮮半島に沿って冷海水として南下する(北鮮海流)。蔚山(ウルサン。釜山のすぐ北)  そのため、付近の海岸では夏でも普通の人には非常に冷たく感じている。

真冬に夏服になったのは、南方に行くためなのか。

飯田桟橋から船に乗った。五六千頓ぐらいあろうか。私達は一番底に押し込められた。下から見ると、四・五階ぐらいの高さに見えた。各階ごとに蚕棚になっており、立つことが出来ない。自分の總具小銃、帯剣、鉄兜、防毒面、雑嚢(ザツノウ)、背嚢、防火面、防暑帽、水筒等、限りなくあり、これだけの物を持っているのである。一つの棚に四人ずつ入った。どの部屋も梯子段がついていて、そこから昇下する。我々四人は中に坐って世間話に花を咲かせる。時にはカンパン等を食う。我々の所には下士官の姿は見えなかった。將校・下士官等は甲板近くにおるという。抜け目がない。船が、やられたら我々は上にあがりきらぬ中に沈んでしまう。二・三回、退船準備の訓練があった。浮袋の代わりに、竹を前後に編んだ代用品を貰っていたので、それを身に附けて小銃、帯剣、カンパン持って甲板上に出るのであるが、船の中は幅一米足らずの梯子段であるので、一人ぐらいしか出られない所に、いっぺんに出ようとするから、尚、出られない。「魚雷にやられたら小銃なんか持って海に跳び込めるか」と、皆、言っている。食物だけは離さない。これが本当である。

船は六隻ぐらいで速力を速めたり、落したりしながら進み、驅逐艦が、前になり後になりしながら、いつの間にかいなくなったり、又、突然、現れたり、時々、飛行機が旋回しながら、どこかへ飛び去ってしまう。また、船はバラバラになり、他の船はどこにも見えない時もあったりして、島影等、見えない海の上を何日も進む。私達は気の合った者同士で、大方、甲板に出ておった。初めの頃は船酔いもあったが、すぐに慣れて来た。南に進むにつれ、段々、暖かくなって来る。ちょうど夕食時に退船命令が出た。私達は慌てながら飯だけは、食らい込んだ、船は前後に揺れながら、砲を打つ音がする。「潜水艦だ」と言っている。私も無我夢中であった。ようやく甲板に出たら盛んに砲を打っていた。私達はただそれを眺めていた。何もすることがない。私は船が、まだ、やられていないから珍しさが先にたって怖ろしいとは思わなかった。潜水艦は去ったという。そんな中で、私は、なぜか半分は船旅を樂しんでいた。後から飛行機が来て、大きく、また、小さく低空で旋回して、いつの間にか見えなかったが、気がついて見たら驅逐艦も来ていた。船から砲を打っている時には、なぜか驅逐艦はどこにも見えなかった。海の上での戰いとは、我々には手も足も出ない。ただ船まかせである。その晩は興奮して余り眠れなかった。我々は寝床で起きて、夜中でもカンパンやカツヲ節等を喰いながら、色々、話に耽る。

朝、甲板に出たら陸が見えていた。中国の山々や家等も、かすかに見えていた。船は止まっているのである。漁舟等は、どこにも見えない。船はいつの間にか動いていた。船は陸から離れたり、また、近づいたりしながら走っている。夕方、陸地に段々と近づいて行った。熱帯地方に来たという感じである。海辺には、ビロー樹等が一列に並んで生えている。汕頭、だという。私達は名前等は余り知られていない南の島と思い込んでいた。後で、ここは中国の広東省のスワトオという港町の名前だという。ややこしい名前であった。 船は港に着いた。上陸する時に船から盛んに空に機關砲を打っている。敵の飛行機が来たかと思ったが、何も音がしない。我々の話し聲で聞えないのか。夜空に曳光弾が花火のように美しい。

 部隊は汕頭の街の大道に出た。ここの道も舗裝されていた。道路と、平行して、もう一段、上の方に道がある。變に思ったら元鉄道の跡で線路は外されていた。街の様子は、あっち、こっちで火が見えているだけで、余り分からない。大分、歩かされた。闇の中に際立って目立つ大きな建物が見えた。ここに我々は入って行った。ここが宿舎である。ここで、我々は色々注意を受けた。このあたありは和平地区であるが、安全ではないという。「絶対に単独行動は取るな」と言う。この近くには、特に便衣(ゲリラ)が出るとのこと。我々の宿舎は、四方を低い塀に囲まれており、塀の外側から少年(ショハイ)が、手に色々な食料等を上にあげ、我々に交換を求めている。小さな汚れた手さげ籠に、無造作に入れてある。衛生的に余り良いとはいえない。こんな風景は上海では見たこともなかった。物々交換は、我々と、これからなくてはならない関係になる。

装具がものすごいというのが、私の感想。こんなにも身につけていたんですね。こういう装具の点検がちょくちょくあって、乱れていると怒られるというのが軍隊。

船は、「地乗り」の航海で、海岸近くを陸地に近づいたり離れたりしながら航海しているようである。潜水艦対策だったかもしれない。沖縄からの疎開船で対馬丸というのが、魚雷でやられたというのがある。

便衣という言葉を初めて知った。ゲリラの様子を「自在にその場にあった服装に装う」という「便利な衣類」という意味の字に私には見える。

筆者は、道路が舗装されている、とか、石畳であるとか、道路についての記述もよくでてくる。当時、頴娃町では舗装された道路はなかっただろうから珍しく感じたのだろう。

汕頭の港に使役に行った。何をしたか忘れたが多分、船から荷上げされた物を取りに行ったのだと思う。岸壁に何十となく、アンペラを被せた物が異様に感じた。皆で見に行くと、これは水死体であった。我々より一足先に上海を出た先発隊が潜水艦にやられたのだという。私達は運命を感じた。

 この街も小さな洋館建てが港寄りに建ち並んでいた。我々は町の中に入っていったことがなかった。外側を通るだけであった。宿舎も町から、大分、離れていた。家の近くにはパパイヤ等、わけの分からない植物も生えていた。私の記憶も、おぼろげであるので、前後になったりする。我々は、ここでも演習をした覚えがない。ただ衛兵勤務についただけである。私が望楼で、夜、歩哨についている時、何やら下の方で物音がしたので、誰何(スイカ)したが、二回したのに返事がないので、小銃で撃つ構えになった時、「待て、俺だ」という返事がしたのと同時に巡察将校が出て来た。三回目で撃たなければならない。將校は「早くから、ここで、ごそしていた」と言っている、私の気が付くのが遅かったので「眠っていた」と言う。「敵であったなら、貴様は撃たれていたのだ」と言いながら、私に気合を入れた。私は眠っていないようでも眠かったことは確かである。衛兵交替後、私は衛兵司令に、大分、殴られた。後で聞いた話では、この將校は意地悪で、時々、こんな嫌がらせをするのだという。私だけではないというのである。「あの將校は、いつかは打たれるぞ」という。

 朝からかんかん照りが續く中、空には白黒ガラスが鳴くのが印象的であった。我が部隊は十キロぐらいの所に移動した。ここは恵来という所で部隊は中隊ごとに別れ、部落を兵舎とした。部落には、人は誰もおらず部落全体は高い塀に囲まれて四角い中にあり、角の方に高い望楼が一つ立っている。家と家とは、全部、向合せで通路は石畳である。家の中は土レンガで出来ていて、窓は一つあるか、ないかで、中は暗く、土間の奥に寝台があり、その下にはカメ壺が横に並んで置いてある。土間の左横にカマドがあり、ここで炊事等をし、土間で椅子に腰掛けたり、または座ったりして食事をする。時には豚と一緒にする家もある。私が見た所は、大概、こんな所が多かった。農村地帯の貧しい村々であったのかも知れない。中国の町や村は全体的に塀に囲まれ、高い望楼が各所にある。そして全部、通路は石畳が敷いてある。

アンペラとは、植物の名前で、そのその茎を打って編んだむしろ(敷物)をかぶせてあったということ。

日付のない日記であるが、当時の記録であれば忘れることはないから、これも後日書いた証拠ところどころにこういう記述がある。

ここでも暴力表現の「気合を入れた」や「殴られた」が出てくる。将校が意地悪だったか、軍人として真面目過ぎたのかは不明だが、「打たれるぞ」は我々の高校時代にも先輩が引っ張ってよく言われた。「打つ側が相手の身として表現するもの」だ。

白黒ガラスとは、かささぎのことである。

我々、中隊は、この部落から、時々、小隊、または、分隊毎に方々に引っ張り回される。時には、我々が村の中を小人数であるのは、余り気持よいものではない。私達が村に入る時は年寄や子供だけがおるのに、若い人々が見えなく、特に若い娘等は、全然、見当たらない。時々、若い男の人が家の蔭をすーと横切る。我々をどこかで、じっと見つめているいるのだという。一軒の家に入った時、さつまいもが蒸してあった。外から婆さんが見て何か盛んに言っているが、我々には、さっぱり分らないので、鍋のさつまいもを喰いながら、そこらあたりを見回し、出る時、また、芋を持って出ると、また、騒ぎ出す。仕方がないので、頭を一つどやして出た。婆さんは、ぶつぶつ言っていた。

 中国の女の人は、年寄から子供まで、皆、耳飾りと腕飾りをし、腕輪は一つか二つしていた。年寄の耳輪は永年の耳輪の重みで、耳の穴が大きくなり、異様に感じた。ここらの炊事鍋は大きな平鍋で日本の平鍋より、うんと薄く触ると、べかべかする。ここらの家には家財道具は何もなく、ただ寝る所と炊事場だけである。あとは何も見たこともなかった。ただ、やたらに小さな豚とニワトリ、アヒルが目につく。

 我々が行く所の村にも畠にも、どこも余り若者が姿を見せない。ただ、時々、町か、どこかに野菜等を籠に入れて担いだ人々が二、三通るだけで、我々に笑顔で挨拶して通る。籠を担いだ棒は先方が尖って槍になっている。何かあった時には武器になるという。先に書いた「芋」であるが 日本では馬や牛に喰わせるような、小さな屑芋ばかりで、大きいのは何もなかった。私達が行く所に大きないもはどこにもなく、畠を掘って見たが土が固く小さないもだけであった。ここらの畠は痩せて大きくならないのかも知れない。

こんなような日々が続く。時には思い出したように演習がある。兵舎に歸れば、被服、兵器檢査等が毎日のようにあり、よく飯盒の蓋、または、中盒等の數が合わなかったりで、そのたび、ビンタを喰う。そのため、よその班から出来るだけ多く盗るのである。盗る時は井戸に各班が集まって食器を洗う時を狙う。各班は、盗られないように、丸くなり、監視しながら洗う。よそから盗った時は、鬼の首でも取ったような気分になる。飯盒がなくなって井戸に跳び込んで死んだ人もいるという。余程、気の小さい人であったろう。數より多く盗った時には、私も中盒を背嚢の中に隠して、仲間が盗られた時に出すように持っていた。そのため、皆、盗みが上手くなる。盗られた人は、また、檢査の時、ビンタを喰うのである。盗って来たら上官に褒められる。

隊は、大隊、中隊、小隊、班隊となっている。

若い男性や女性がいない、ということが書かれている。日本兵を警戒して隠れているような気がして、
不気味な感じがする。南に行くにつれて、反日感情が強くなってきているのを感じる。

私が小さいときは、出水でも豚やニワトリ、アヒルを飼っていたので似たような情景が浮かぶ。

耳輪についての観察は貴重だ。世界古代では装飾や呪術(じゅじゅつ)、あるいは地位の象徴として用いられた。19世紀後半下火になって、一般化したのは、第二次世界大戦後のようである。

被服検査と兵器検査は軍隊ではつきものなのだろう。飯盒の蓋の数合わせなど、暴力の原因でもあるような気がする。

夜の点呼後、消燈までに草を焚き、蚊を追い出して蚊帳を張る。草は晝の間に採って置くのである。マラリヤにやられるから、時々、「キニネ」という藥をくれる、小さな黄色い苦い樂である。それでも、毎日二、三人の熱発患者が出る。時々、煙草、甘味品等の配給があり、これらは、皆、中国製である。

 食事は、大概、水牛肉にエンサイ(ホーレン草に似た野菜)で、水牛肉は黒くて、油けのない、余り上等肉とはいえない。町におる時と、貧しい農村地帯とでは喰物が變ってくるので、我々は町に出たいが、我が隊は、いつも農村地帯を、さ迷うだけである煙草等をくれる時には、いっぺんに、一人に二十、三十個もくれる時もあり、ない時には、とことんなく、一人に二十・三十個くれて持つのは、いつも部隊が移動する時である。

私は山砲聯隊に入隊したが、山砲に付いての教育は一つも受けなかった。時に演習はあったが歩兵演習と何ら變りなかった。部隊に馬が數十頭いたが、その内、二十頭ばかり、我々は見習士官を長として、二、三十キロぐらいの所にある部隊まで連れて行った。その附近は、時々、便衣が出るから警戒が必要とのことで、輕機、小銃でかためた護衛がついたが何もなかった。
(4行くらいの空白)

 晝の行軍の時、川にそって、車兩が幾台か続いて通っていた。川の兩岸は余り木の生えていなく、所々、僅かに猫柳が生えているたけで、川岸は砂で覆われ、道が続いていた。一台の車が川に転落した。高さ五米ぐらいあろうか。馬が暴れるために、車はずるずると落ちる。すぐ水に浸かってしまった。皆どうすることも出来ず、軍曹が「鳩が死んだ、鳩が死んだ」と、泣きながら、落た所を行ったり来たりして、我か子を死なしたような素振りであった。この車に傳書鳩の箱を積んでいたとのことであった。
(「3分の1」頁くらいの空白)
(続いて「3分の2」頁くらいの空白)

煙草が軍隊で話題になることは多い。先述の馬糧倉庫の窃盗の時にも上官が「吸わせてくれた」とあったし、恩賜おんちょうの煙草という言葉もあり、出水ではそれを耕作する家庭の誉と収納する時の厳格さとお祭り的な習慣がある。タバコは、軍隊でのすざまじいストレス解消のためだったのだろうか。

街に出ることも出来ず、便衣(ゲリラ)をとても警戒している様子がわかる。

我々は、行軍が余りに辛いので、逃亡しょうかと思う時もある。色々考えを廻ぐらしながら、夢を見ように、ただ歩く。第一、逃げる時、服装を変え、中国人を殺し、言葉が別らない時、唖の真似をする。ここまで成功しても、その後、逃亡が分ると家族に迷惑がかかる。永久に国へ歸れない。ここまで来て思い止まる。

軍隊では「逃亡」や「自殺」が話題になるほどきつい状態であったようで、逃亡した時のやり過ごし方は、日頃、兵の中では共通理解していたことなのだろうか。「満州義勇軍の記録」の中に、
満州で逃げて帰ってきた人で、ずっと案内してくれて人を殺したと。殺さないと自分が殺されると思ったと、書いてあるのがあった。

まとめ

『逃亡しようかと思うときもある」と、こんな風な気持ちにさせてしまうのが軍隊である。
よく「戦争はよくない、よくない」と、言いますね。ところが、気がついてみたら、そうな風になっとた、というのが戦後、みんなの感想なんですよ。

小さいことからだんだん変化していって、身動きができない状態になって戦争になっていた、ということなんですよ。
我々が一番注意せんないかんのは、今、おかしいことは何なのか、それなんですよ。

このことを、ほとんどの会では言いませんね。
それが、私が最後に強調したいことなんです。

高教組の代表として、中国にも行きました。日本が中国に侵略した時の、南京虐殺や盧溝橋事件のところへ連れて行ってくれました。

共産党の人の偉い人が対応してくれます。私は、必ず聞くんです。
「日本に原爆が落ちたことをどう思いますか?」と。
そうすると、「日本も中国大陸に侵略して入ってこなけば原爆も落ちなかった」と言われます。

日本がスタートに中国に侵略した。そのもとは、日本の軍国主義なんです。
その軍国主義に何故、なっていったのかは、以前、この集いでお話をしました。
(2019年1月26日 『明治維新から軍国主義まで』)
スタートは、薩摩にあるような気がしてならない。

中国に侵略していったのは、間違っていなかったという人たちがいる。
自虐史観 アジア解放主義 

この会でも、戦争に進む芽をつぶす、ということを強調しなければならないと思います。

参加者の感想

地図を見て、列車で移動している地域は、日本の支配している安全地帯だと思う。
ゲリラとは、昼間は、農業しながら、夜はゲリラになる。ゲリラには共産党軍が多いが交戦していないのが、不思議。
私の知っている人で海南島まで行った人がいたが、空爆もなくて平和だったと聞きている。

私の父は、95歳で7年前に亡くなったが、満州に行っていた。戦地とは思えないのどかなところにいたようだ。
別の隊の兵隊さんが、失火で倉庫を焼いた人がいた。軍法会議にかけられ、南方の最前線に行かされると聞いたら、それを苦に自殺した人がいた。
父は、なんで、なんで、と、戦後、その方の線香参りか、墓参りに行った、とかなんとか言っていた。

生きているときにもっとそんな話を聞いておけばよかったと思っている。
従軍慰安婦のことも日本は、すっごく悪いことをしているのだから、、謝るべきだ、と言っていたのを何回か聞いたことがある。

先日、ラジオを聞いていたら、戦争は終わっても、終わっていないという発言があった。
従軍慰安婦問題について、人間の基本的な尊厳を踏みにじったことだと思う。
このくらいはいいだろうと思っていたら、身動きができないようになって、戦争になっていた。
そのことで気になるのが、息子が学校でディベートの練習をしているが、そのテーマが「かるかん、がいいか、かすたどん、がいいか」というテーマでさせている。そういうテーマで、どうして真剣なディベートができるのか?
もっと身近で大事な問題があるのに。戦争のことについても、どうしてそんなことがおこったんだろうかといろいろテーマはあるのに。

(指宿の案内ガイドの方)2年ばかり前、戦時中指宿に来ていた輜重兵だったという人で、長崎から来た牧師さんを案内したことがある。その方に、「輜重兵とはどういうことをするんですか?」と聞いたら、「戦闘部隊を物品で補助する部隊、馬が大切でした」と言われた。当時、指宿にいて、そのあと志布志に移っていったらしい。

先日、京都から電話で、海軍の設営隊が掘った防空壕があるというので探してほしいと依頼があった。
潜水艦が相当動いていて、知覧の聖ケ浦せいがうらは、特攻艇震洋の基地があった。そこにいた人が、佐世保を出て、南方に行く時、2度潜水艦でやられた。石垣かフィリピン。
また、佐世保に戻り、隊を整えて、知覧の聖ケ浦にやっと来た、という人がいた。
兵隊は、戦う人ばかりではなくて、支える人もいるんだぁなと思った。

日記を読んで、食べ物がとても不足していたんだあ。途中、途中、食べ物をどういう風に補給・確保にしていたのか?
そんなに多くの人が、食料を調達しながら、船にのったり、汽車にのったりしていったのかな、と思う。想像もつかない、中国の習慣や風習など書いておられて興味深かった。  
日記が途中で終わっているが、戦争の怖さとか伝えていきたい。

輜重隊は、後方で物資を供給する部隊
これがでたらめなのがインパール作戦。
このような大事な仕事をバカにする風潮はなっていない。一番大切な仕事。
西南戦争は兵站がなかった。

満州は、面だが、今日の日記から、中国は点の状況だと感じる。
背嚢 はいのう以前読んだ本で、30キロくらいあるそう。そのくらいの重さのものを背負って行軍していった。上海、租界は、いろんな人や文化が入り込んでいた。珍しかったでしょうね。
自分の父も、熊本の六師団にいた、という記録があるので、この頃ここにいたのかもしれない。

広い中国を海岸沿に行っている。そこしか安全でない。

軍隊の嫌なところが鮮明に出ている。『自殺者が出た。何でも便所で死んでいたらしい』など。

後から描かれているにしては、詳しいなぁという気がするので、少しづつ少しづつ書き溜めておいたのかと思う。日本人は、メモ魔だったらしい。
亡くなった義父は、軍隊ではなく、軍属だったらしいが、日本人が中国人から恨まれるのは当たり前だとそれだけのことをしてきたんだと、と言っていたのを思い出す。。
軍隊でなくても、日常的に暴力的なことをしていたのかもしれないなぁと思う。

飯盒の蓋の数が合えばいい、という主義。コロナのことでも、ワクチンを一日に100万個を用意する、とにかく東京オリンピック、パラリンオリンピックを成功される、ということが、数合わせというのに、つながっているのかと思う。

日本軍は、兵站的な考慮というのはない。
ベトナム戦争の時、米軍のレンジャーがヘリコプターから落としたコンパクトな兵站というのを手に入れることができて、開けてみたら、ステーキの缶詰とか、簡易な医薬品、バンドエイド 包帯、小さくしたトイレットペーパー、マッチ、つまようじなどが入っていた。兵士が前線で困らないようにきめ細かい配慮が感じられた。

ステーキの缶詰も食べてみたが、美味しかった。
福留さんが、持っていた食料は、スルメとか鰹節とか、お手玉の中の入り豆を食べたとか、時代も違いますけど、こんな食糧で、兵士が十分に戦えるんだろうかと思う。

最後に

以前、沖縄戦に行かれた方が話されました。
「アメリカ軍の怖さより日本の軍隊内のいじめのほうが、よほどひどかった」と。
その話を証明するような軍隊内での暴力、自殺者、逃亡。どうして同じ味方同士でこんな非情なことができるのか、全くわかりません。しかし、それが戦争、なのでしょう。

その悲惨さと恐ろしさを如実に教えてくれるのが、この日記だと思います。解読してくださった田頭さん、有難うございました。                           筆跡:山下春美

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