『沖縄戦で戦死した伯父が残した西郷竹人形の由来を知りたい』
2021年6月、兵庫県明石市にお住いの村上明男さんから突然お電話を頂きました。私が主宰する「戦争を語り継ぐ集い」が発行した冊子「特攻隊員と子犬の交流」を紹介した朝日新聞の記事に気づかれ、以下に紹介する相談を受けました。
「昭和20(1945)年6月20日に沖縄真壁(現糸満市)で戦死した伯父の遺品として、母が大切に保管していた西郷さんの竹人形にまつわる情報を探している」とのこと。
数日後、竹人形と伯父様の写真(上記)、これまでの調査の概要が書かれたお手紙が届きました。
かすりの着物姿で愛犬を連れた西郷隆盛が描かれた竹人形は、太い竹の節間をくり抜いて作られているため湾曲しています。
『西郷隆盛の竹人形』は、3年前に亡くなられた村上さんのお母さんが、伯父さまの遺品として鹿児島で投函された軍事郵便葉書とともに大事にされていたもの。伯父さまの部隊は、沖縄への輸送船団を待つ1ヶ月間(昭和19年10月)、薬師町の西田国民学校(現西田小学校)に宿営していたようです。
竹人形の裏面には伯父様の筆跡で遺書らしき文字が記されています。
文字はかなり擦れていますが、かろうじて判読できた文字は、
忠 誠
千万子へ
突 撃
昭和19年11月1日
黒川少尉
伯父、黒川知良(ともよし)の略歴は、
大正10年 愛媛県生まれ
昭和19年 9月17日 善通寺で編成された「海上挺進基地28大隊」に編入
10月1日 善通寺を出発、鹿児島へ移動。約1ヶ月間、西田国民学校に宿営
11月3日 鹿児島湾出港
『カタ322船団:輸送船10隻(乾城丸、馬来丸、他)、護衛船5隻(真鶴、他)』
11月6日 那覇港上陸、沖縄本島南部の湊川附近で陣地構築
昭和20年 6月20日 沖縄真壁に於いて戦死
村上さんは、戦後60年(2005年)頃から伯父様の足跡を調べ始められたそうです。お父さんが薩摩川内市出身ということもあり、3年前には来鹿し、この竹人形の由来(西田国民学校の関係者から譲られたものなのか、鹿児島市内のお土産店で購入したものなのか、など)を訪ね歩かれたそうです。
西田小学校、西郷南洲顕彰館、鹿児島県歴史・美術センター・黎明館を訪ね、鹿児島県立図書館では資料調査をされたそうです。戦前戦中の記録や資料は、昭和20年の8回にわたる鹿児島大空襲で、ほとんど残っていないとのことでした。
知覧特攻平和会館の館長さんからは、「西郷隆盛は、戦争の神様としてあがめられ、特攻された方が身につけていた可能性はあるのでは」とのお話も聞きしたそうです。
2021年8月に朝日新聞、同年10月に南日本新聞に、西郷竹人形のカラー写真を載せた記事を大きく掲載いただきましたが、これまでのところ手がかりは得られていません。
朝日新聞デジタル無料版 村上さん記事
記事協力 ライター 知覧哲郎さん
私も、西田国民学校に在籍していた90代の男性に直接お尋ねしましたが、西郷竹人形のことについてはご存じありませんでした。
また、現在薬師町にある竹製品のお店の方から鹿児島在住の竹製品専門家を紹介していただき、お手紙で尋ねましたが、手がかりはつかめませんでした。
そして、西田国民学校ご出身ということで、京セラ名誉会長、稲盛和夫氏宛てに手紙をだしていますが、お返事はなくご存知ないようです。
以上が、2022年 4月1日現在の探索状況です。
村上さんは、「伯父が生きていた証し、伯父と母を繋ぐ証しとして、和紙に包んで仏壇の奥に大事に保管していた竹人形の由来を解き明かしたい。そのことが伯父の供養にもなるのではないかと」と話しておられます。
もし、戦争がなかったら、黒川知良さんと千万子さん兄妹は、どんなふうに過ごしておられたのかな、と思います。
どんなことでも、構いませんので、情報をお寄せください。
山下 春美