日中国交正常化50年『旧満州国引揚体験者の話を聞く』        2022年3月16日(水)

2022年

今年は、日中国交正常化50年です。

1972年9月 田中角栄総理大臣と大平正芳外務大臣が中国を訪問し、日本と中華人民共和国が国交を結んだそうです。

今回は、赤崎雅仁さん、Iさん、Yさん、Mさんの4人に、引き揚げ時の体験をお話していただきました。

赤崎雅仁さん 80代 男性 霧島市

昭和11(1936)年 間島省・琿春かんとうしょう こんしゅんで生まれる。
昭和20(1945)年 8月15日 9歳。延吉えんきちの収容先である日本人学校宿舎で終戦を迎える。

昭和21(1946)年 妹二人が栄養失調、伝染病で亡くなる。母親が八路軍被服廠に留用される。
昭和23(1948)年 母が被服工場からたばこ工場に転職。図們ともんに移動する。

昭和23(1948)年 学校もなく八路軍が運営するたばこ工場内の通信員として働くことになった。
解放区(共産党支配区域)内の郵便物を受け取ったり、党の重要機関に届けたりする仕事である。

昭和25(1950)年 朝鮮戦争勃発、工場とともに長春ちょうしゅんに疎開。

昭和26(1951)年 母親の結核が悪化、8月9日に亡くなる。42歳だった。

昭和28(1953)年 3月 念願の帰国が決まり、残留日本人が新京に集結。
4月 1日 
列車で瀋陽に着き、しばらく滞在。戦後の同級生と数年ぶりに出会った。技術者の子供たちで、撫順、鞍山の工業地帯に移動させられていたらしい。この間各地からの帰国者を終結させるために時間がかかったようである。合計1,968名が集結。

4月 13日 
山海関の麓にあたる秦皇島から、興安丸に乗船、出航。対馬海峡に差し掛かると報道機関の飛行機が旋回しながら低空で近づき、手を振って応じた。 船内では「赤飯」が、子供たちにはお菓子が配られた。大喜びではしゃいだ。日本領海に入ると、どこに隠していたのか「日の丸」を振っている大人もいた。

4月 15日
舞鶴港へ入港、その後、検疫が始まり、下船までには時間がかかった。
タグボートに母たちの遺骨を胸に乗り移り、舞鶴桟橋を渡る。

出迎えの人たちの間をくぐりぬけ、県ごとに引揚げ寮へ、落ち着く。県ごとに取材のための記者クラブと県の出先があって、郷土の名産、桜島大根などが置いてあった。

ここで蓄えていたお金とたばこ工場での退職金、一万円を日本円へ両替、そして引き揚げ一時金(確か二人で一万円?)の支給を受ける。
旧軍隊の毛布など衣料品も給付された。

東舞鶴をたって、門司で一泊し、鹿児島へ向かう。鹿児島へ入ると各駅で停車中に婦人会のおばさん達がお茶やお菓子で歓迎してくれた。鹿児島駅に着くと、駅前にバラック建てのようなところで食事をしてから加治木へ。町役場の方が「駅に降りたら一言、挨拶してほしい」と言われた。

多くの人が出迎えてくれた。何を話して良いやら困ったことを覚えている。

Iさん 80代 女性 鹿児島市

昭和15(1940)年 7月 瀋陽で生まれる。
昭和18(1943)年 4月 教員をしていた父親が営口へ転任。ともに移動。弟が生まれる。
昭和20(1945)年 8月15日 5歳。父親は、2週間前の7月30日に現地応召され、入隊。
                  敗戦と共にシベリアへ抑留される。

昭和20(1945)年 12月 母親が 結核性の腹膜炎で亡くなる。28歳。
昭和21(1946)年 8月6日 葫蘆島に向かって無蓋汽車で出発した。
              途中、雨に降られ、8月だというのに非常に寒かったのを覚えている。

「後で伯父が言っていましたが、子供たちは、唇も顔も真っ青だったので、おそらく助からない、と思ったと言っていました。収容所に着いた時、兵隊さんが抱きかかえて風呂に入れてくれました。」

「その暖かった感触、ホット生き返ったような気持ちは今でも覚えています。その夜は食事もせず、グッスリ眠りました。収容所では、ちゃんと食事もでき、外の庭にはきれいな草花が咲きほこっていました。」
コレラ発生のため、25日間、葫蘆島に足止め。その後、LST(戦車揚陸艦)にて、出航。

「船の中では、食事にお魚が出て、私は、お魚が大好きだったので、嬉しくてたくさん食べたら、お腹をこわしてしまった(笑)」

昭和21(1946)年 9月26日 、佐世保に到着。岸壁から見た山々の緑の美しかったこと、箱庭を見るようだった。

その後、重富の叔父の実家に到着。私達を見た祖母が、
「こげんちいさか(小さい)子が助かって帰ってきたのに、ツネ子(娘)は何故生きられなかったのか‥‥」と泣きました。

その後、大人たちが集まって喜んで話をしてくれるのですが、その言葉が中国語みたいに聞こえ、ここはまだ中国かな?と錯覚しました。

Yさん 90代 女性 鹿児島市

大正14(1925)年 3月 宮崎県延岡で生まれる。
2歳の時、父親の仕事の転勤で、朝鮮、興安に引っ越す。
その後、北朝鮮新義州、水豊と転居。

昭和20(1945)年 8月15日 父親の勤める会社、水豊の系列病院の薬事部で、薬の調剤係をしていた。上司から、ラジオ放送があるからと集合をかけられ、そこで敗戦を知る。

それまで、日本人が管理していた病院だったが、その日を境に朝鮮の人が管理することとなった。
それから、3か月は病院で朝鮮の人々に仕事を引き継ぐために働いたが、その後は、知り合いの家に兄弟3人身を寄せ、持ち物を売り食いしながら、暮らしをしのいでいた。

両親は、昭和20年8月26日、結核を患っていたすぐ下の妹が、朝鮮半島中ほどに平康にある療養所にいたので、娘を連れ帰らなければ、と出掛けた。然し介抱の甲斐もなく妹は亡くなり、両親は水豊に戻ろうとしたが、すでに北緯38度線で南北に分断され、北上することができなくなった。

戦後一年を経過して治安も少し落ち着き、私達も8月30日に引き揚げ出発の決定通知が届いた。いざ、事実となると複雑な気持ちになった。先ず前途の不安、出発の準備、今まで過ごした朝鮮各地の思い出。

早速旅立ちの支度に取り掛かった。母の着物の帯の芯を使い、リュックサックを作った。帯芯は厚く固いので、とても苦労した。

次に野宿の夜に被るもの。母の和服を解いて一枚の広い布に縫う。食べ物は真夏なので、腐敗するものは持てない。米、味噌、塩、炒り米や大豆の炒ったもの。大事に保存しておいた缶詰など。それにわずかな調理器具。

出発の朝は早く起き、沢山のご飯を炊き、梅干しを入れたおむすびを作った。
会社がチャーターしたバス4台に分乗して、休憩を取りながら2日間ほどで平安北道と南道の境界で下車。バスはここで引き返すという。

その夜は、安全そうな山中に野宿することになった。川の水で米を洗い、木の枝を拾って、石で囲ったかまどを作りご飯を炊く。夜は、木の間の平らな場所に寄り添って横になり、母の着物で作った掛物を被って眠った。

翌日からいよいよ徒歩の旅。村落の入り口には関所みたいなところが作られて、日本の警察に代わって組織された保安隊が詰めていた。通過許可をもらう度に、何か目ぼしい贈りものを渡した。

約15日間の旅だった。「今夜、38度線を越えます」と説明があり、日暮れを待った。ソ連兵がでてこないようにと祈りながら小高い山を登った。やっと頂上に着いた。木々の間から明かりが見えた。

あれが開城だ! もう38度線を超えたのだ―――。アメリカ軍のかまぼこ型をしたテントが沢山並んでいるのが見えた。

昭和21(1946)年9月24日 昼過ぎに収容所を出た。貨車に詰め込まれて釜山に向かう。私達が乗ったのは長輝丸という船。船首の日の丸の旗を掲げていた。

指図に従い船に乗り込む。船内では拡声器で今後の手続きなどの説明が流れた。汽笛を鳴らして出港。
弟、妹と身を寄せ合あいながら、横になり、いつしか眠っていた。

「内地だ」「内地だ」という声で目が覚めた。翌日検疫が始まり、私は検疫の助手に指名され、手伝った。一週間患者が出なければ晴れて上陸ということだった。

昭和21(1946)年 10月2日 南風崎という港に入った。下船したら、いきなり頭からDDTをかけられた。シラミの駆除のためだった。

桟橋近くの木造の建物に入ると、長い廊下のあちこちに在外官公庁や会社などの連絡窓口があった。その中に会社の名前を見つけ、並んだ。係の人が「お父さんは福岡県の二日市ににいますよ」と教えて下さり、翌日南風崎の臨時駅から有蓋貨車に乗って向かった。

南風崎を出るとき、大きな梨を3個買った。有蓋貨車の暗い車中で立ったままかじった。涙と共にタオルで拭きながら食べた。

午前中、博多の会社に着いたら社員の一人が、父を知っていて連絡を取ってくれた。昼前に父がやってきてくれた。1年2か月振りの再会だった。

両親が住んでいるという二日市保養所の一室の部屋に落ち着き、母に「只今帰りました」と挨拶をした。妹、弟を無事に連れ帰り、私の重い役目は終わったのだ、と思ったとき、ホッとした。

Ⅿさん 80代 男性 鹿児島市在住

昭和10(1935)年 四平街(しへいがい)で生まれる。
父親が南満州鉄道勤務で、満州国内を転々として過ごす。

住んでいた地域は、生水は飲めない、コメはとれないところだった。食べ物は、大豆、小麦、コーリャンを主に食べていた。

国民学校の小学生だった私は、中国人の子供たちとも一緒に遊んでいました。中国の女の人で、足が大きくならないように足に布を巻いている人もいました。足が小さくちょこちょこ歩いていました。

補足

Mさんのお父さんは、現地応召され、昭和19(1944)年、佐世保から沖縄へ出征することとなりました。見送りのため、満州から家族で佐世保に来られ、その後は満州へは帰らず、鹿児島に戻ってこられたそうです。そのため、終戦後の満州引き揚げのお話ではなく、満州での体験をお話しくださいました。

まとめ

赤崎さん、Iさん、Yさんの3人の引き揚げ時に共通していることは、両親がいなかった、ということです。周りに親しい大人たちがいたとしても、甘えたい親がいない。どんなに心細かったことかと思います。

Mさんは、満州で暮らした経験以外に、満州国の成り立ちや日露戦争時の東郷平八郎についてのお話をしてくださいました。
ありがとうございました。

赤崎雅仁さん、Iさん、Yさんは、ご自分の体験を冊子にしておられます。

読んでみたい方は、ご連絡ください。貸出をしております。

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