『「講談師、見てきたように嘘をつき」と申しますが、ドキュメンタリーをベースに味付けしたもの、まあ映画で言えば、「この映画は実話に基づいたものです」と解説される、そのような代物と言っていいでしょう。 本日は中国人強制連行被害者劉連仁(リュウレェンレン)さんを主人公とした物語を読ませていただきます。』
と、始まりましたのは、天羽浩一さんのユーモラスな口調の講談滑り出しの部分です。
社会福祉士である天羽浩一さんが、講談をされていると知った私は、今回「リュウレェンレン物語」のお話をお願いいたしました。
旧満州国営口のお生まれで、満州棄民や中国残留日本人孤児・徴用工問題などについての文章も
書いておられます。それらについては、追って記事投稿していきますので、併せてお読みください。
劉 連仁(リュウレェンレン)さんとは?
「リュウレェンレン」(劉 連仁)物語というのは、1944年に劉 連仁さんという人が中国の山東省に家族と暮らしていましたが、日本の政策により北海道の炭鉱に連れていかれました。
1945年仲間と脱走を図り、その後13年間、終戦を知らないままに北海道の山中で逃避行を続けながら暮らしていたという実際の話です。
劉 連仁(リュウレェンレン)配布用原稿
注:芝木のり子さんの長編詩、沢知恵さんの弾き語りが 本体となっております。
中国、山東省 ある日の朝 配布資料より
昭和19年9月のある朝のこと、リュウレェンレンが攫われた・・・・・
このあたり一帯(山東省)が、「華人労務者内地移入に関する件」により労務者狩場となっていることなどリュウレェンレンは、知る由もなかった。
初々しい前髪の妻は7ヶ月の身重だ。チャオユイランよ。チャオユイランよ、リュウレェンレンは
胸が痛い。たとえひと月、ふた月でも俺が居なかったら、母とまだ幼い5人の兄弟はどうなる・・・・
日本へ・・・北海道 炭鉱・・・・・冬・・・
一行八百人の男たちは、青島(チンタオ)の港へと追い立てられていった。暗い暗い貨物船の底、リュウレェンレンは銃剣つきの監視のもとで指紋をとられ、終身奴隷として門司の港に着いた。
男たちは、この世の終わりのように陰気くさい、最果ての炭鉱へとおいたてられていった。
10月末には雪が降り、樹木が裂ける厳寒のなか、かれらは裸で入坑する。9人がかりで一日に
トロッコ50車分を掘るノルマ。棒クイ、鉄棒、ツルハシ、シャベル、殴られて殴られて、基傷口に入った炭塵は刺青のように体を彩り、ただれていった。それから男たちの逃亡につぐ逃亡が始まった。
雪の上を足跡と辿り連れもどされて目をおおうリンチ、仲間が生きながら殴り殺されてゆくのをじっと見ているしかない無能さに、リュウレェンレンは何度震えがとまらなかったことだろう。
脱走 そして・・・・・
春が訪れ、空気にかぐわしいさがまじり、やがて花も樹々もいっせいにひらく北海道の夏、
逃げるのなら今だ!
リュウレェンレンは一人で逃げた、どこから。便所の汲取口から。汚物にまみれて這い出した。
それから12年の歳月が流れた。
リュウレェンレンにとっての生活は穴に入り、穴から出ることでしかなかった。
厳しいある冬の朝のこと、リュウレェンレンはとうとう発見された。
札幌に近い山中で日本人の猟師によって。凍傷にまみれて6尺ゆたかな見事な男が絶望的な表情をにじませて「イダイ、イダイ」を連発する。「痛い」それはリュウレェンレンのおぼえていた
たった一つの日本語だった。
リュウレェンレンにスパイの疑いがかかり、取り調べがあった。
どこで働いていたのか。北海道の山々をどのように巡ったか、すべては朦朧と答えをだせなかった。
政府は、リュウレェンレンを「不法入国者」として片付けようとした。
このことを知った心ある日本人と中国人の手によって、リュウレェンレンの記録調査がすみやかに
おこなわれた。労務者として強制連行された中国人の数は数万人、それらの名簿を辿り早く彼の身分を証すことだ。
その後
リュウレェンレンさんが、その後どうなったのか、上記の配布資料をお読みになってください。
劉 連仁(リュウレェンレン)ウィキペディア
この記事原稿をキーボードで打ちながらも、ただ、中国から炭鉱に連れてこられた人間を殴り殺してしまわなければならないほどの理由が、日本人側に存在しうるのだろうかと憤りと悲しみの深い水が私を沈めていきます。
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