午前の部 「どんな戦争遺物、遺品資料館があったらいいかな、ワイワイトーク」
このブログでも紹介している「かごしま平和の未来館プロジェクト」代表の野田洋一郎さんに、現在
の活動状況と収集活動における苦労(裏話)などをお話していただきました。
その後、参加者3~4名位のグループで、以下のことについて意見交換をしてもらいました。
1. 鹿児島に戦争遺物や遺品を展示するとしたら 場所はどこがいいか?
2. どんな展示をしたらいいか?
3. どんな資料館だったら、行ってみたい、と思うか?
出た意見
1.鹿児島市の中央公民館の地下の一室を展示室に。
中央公民館周辺は、博物館や教育会館など石の建物がある。城山登山道には
防空壕などもあるので、フィールドワークとして散策できる地である。
2.誰に見せるのか?若い人か?外国人か?何を見せるのか?どんなふうに見せるのか?
展示の具体的な方法を決めることも大切。
3.学校の空き教室など昔の民具などを展示しているところもあるようだが、戦争遺物なども
展示してもいいのではないか?子どもたちが自由に触れ、戦争を身近に知ることができる。
4.単発的な展示ではなく、戦争がなぜ、起こっのか?という歴史的な経緯をわかるように
年表なども用いた有機的な展示を望む。
砲弾や刀、鉄砲などの個人所有での展示は、手続きなど難しいようなので、レプリカでも
対応できそうであれば、それも一つの方法?
5.軍服の展示は、「カッコイイ!」と印象づけてしまう展示にならないよう注意してほしい。
収集における苦悩
昨今は、終活で自宅にあった戦争関連の遺物遺品の寄贈の申し出があるそうですが、鉄砲や砲弾、刀などあったら、それらの所持は、銃刀法違反などに適用されるそうで、警察とのやり取りもひと手間あり、そのあたりのご苦労話もしてくださいました。
一緒に活動してみませんか!
現在、主たる活動を一人でされている野田さん。一緒に活動してくださる人を求めておられます。
具体的には、収集する品に興味を持って、その品のことをいろいろ取材してくれる記者募集。
そのために、
・楽しくやっていこう。
・好奇心をもとう!
・この活動に生きがいを見つけよう!
今後・・・・
鹿児島県は、他県に比べ空襲もひどかったようですが、それらの空襲についての記録や研究がほとんどされていないという現状があるようです。そのため、戦争関連の資料館もないです。
野田さんの活動が、鹿児島での平和を願う未来館建設の先駆的な取り組みになるように、みんなで、後押ししていきたいです。よろしくお願いいたします!
最後に・・・・戦場体験のある97歳、坂上多計二さんが全身全霊で訴えた言葉
(ロシア・ウクライナ情勢から)
どちらが正しいとか、悪いとかはない。正義の戦争は、絶対にない。
午後の部 「昭和20年6月17日 鹿児島大空襲の体験談を聞く」
鹿児島市皷川町にお住まいの 中 精一さんに、空襲体験の話をしていただきました。
中さんは、昨年、南日本新聞の「証言 語り継ぐ戦争」の紙面や生協コープの「6・17平和のつどい」でも、ご自分の体験談を話されています。
昭和9年生まれの中さんは、当時10歳で、西田国民小学校に通っていたそうです。
自宅は、薬師町。父親は出征し、母親と祖母の3人暮らしだったそうです。
昭和20年6月17日は、夜10時頃空襲警報がなりましたが、いつもなっては、何もおこらない空ふりのことが多いので、悠長に考えていましたが、ふと台所のガラス窓に飛行機の影が写って、これはただ事ではない、と自宅の防空壕に飛び込んだそうです。
その日は、昨日までの梅雨の長雨が止んで、満月のきれいな夜だったそうです。
しかし、防空壕には水が溜まっていたので、荷物は水びたしになりましたが、焼夷弾による火事の追ってからは、免れたそうです。
空襲によって、自宅は焼け落ちてしまい、これからどうしよう、ということになりました。
それで、親戚がいる加世田の万世に疎開することになりました。
次の日の6月18日、自宅の薬師町から汽車に乗るために西駅(現:中央駅)に歩いて行きましたが、その道には、人間の姿をとどめていない死体が累々と横たわっていたそうです。
しかし、それらの死体に気をとめることよりも、ただひたすら西駅を目指して歩いていくことだけに心が向いていたそうです。
そして、疎開先万世での体験で、今でも目に焼き付ていている情景があるそうです。それは、捕虜として捕まった米兵に住民が乱暴をして、血を流して引っ張られている姿だそうです。
あの米兵は、あれから一体どうなったんだろう、とずっと探していて、昨年その後のことがわかったそうです。
中さんは、その後の人生でも、「戦争は絶対嫌だ」と感じる体験を幾度かされたことも話してくださいました。
そして、在職中、南米パラグアイのチャコ地方へ案内されたことがあるそうです。そこは、キリスト教の一派の人々が、反戦主義の信念を貫き、ドイツから移住してきた人々が住んでいる地域がだったそうです。
そのチャコの反戦主義の信念の下、暮らす人々の生活の様子を聞かせていただいたことが、とても興味深いでした。
ただ、体験談を聞くだけではなく、世界には、自分の信念を貫ける土地を求めて、世界を移動していく
人たちもいるのだということを知り、ある種ショックを受けました。
私は、今いる日本という土地に、自分を合わせて暮らしていますが、その人たちは自分の信念を貫いて暮らしていける場所をつくろうとして生きていこう、としている。
6月23日 沖縄慰霊の日
今回、午前、午後の2部に分けて、「集い」を開催しました。
それぞれに時期を逸してはならないテーマで、講演者の想いを参加者同士で共有できたことが感じられ、嬉しいでした。
午前の部の後半では、6月23日の沖縄慰霊の日についても話をしました。6月18日は、沖縄県立女子師範と第一高女の生徒で編成された特志看護婦の一つ、「ひめゆり部隊」が、生きて敵の手ごめになるな、という日本軍の命令に従わされて摩文仁の四つの洞窟で集団戦死した日だそうです。
筆責:山下 春美
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