毎日新聞記者で、薩摩川内市支局勤務の降旗英峰さんは、長野県出身。
「戦争を語り継ぐ集い」への参加から交流が深まり、長野県出身である、ということを知りました。
今年の夏(8月)に、長野県の実家に帰省の折、長野県阿智村にある「満蒙開拓平和記念館」へ初めて訪問され、その感想などを話していただきました。
(2018年8月、「集い」のメンバー6人も満蒙開拓平和記念館へ、訪問しています。)
満蒙開拓について
小中高時代は、満蒙開拓についての教育はなく、中学時代に東京空襲や沖縄戦などの戦争体験報告は聞いたことがあります。
鹿児島県に赴任して、満蒙開拓との繋がりを知り、この夏実家に帰省した時に、行ってきました。
川内の空襲や満州引き揚げ者の話の資料などを手に入れ、少しずづ勉強はしているところです。
郷里には、父が健在。満蒙開拓平和記念館は、長野県の南の方にあります。
記念館を訪問した際に、案内説明のガイドをしてくださった野口さんは、89歳で鹿児島県伊集院出身、旧制伊集院中学校、東京の大学を卒業後、長野県の高校教諭を退職後、記念館ができたのでボランティアガイドで活動されている方でした。
(私たちが訪問した際も説明してくださった方です♪)
※ 降旗さんが、記念館内を写真撮影されたものを映像で説明。
―館内で販売されていた文集からの紹介- (満蒙開拓団に行った人たちの体験集)
①(男性)村の偉い人が来て勧め「20町歩の土地がもらえる」と、言われた。ここでは5反百姓だった。
②(女性)戦争に負けた時は、食事がのどを通らず、日本へ帰れないと思った。「満州服を着た人が「生きて帰りましょう」と。歩いて撫順まで。途中で水がなくて「水を飲みたい」と言って死んだ人。そんな人がゴロゴロしていた。
③旗振り役の人、青年会長をしていて、義勇隊と開拓団、おばあさんが「孫に勧めないでくれ」と。自分も行かないわけにはわけにはいかなかった。大家族に勧める原則があった。
④教師として義勇隊を送った人。割り当てが来る。満たさないで困っている人もいた。校長も国策が出来て喜んでいた。最初は、大変だったが、今は元気。引き揚げの帰途、ハルピンで死んだ教え子もいた。国の命令だから戦後は9月から学校に、軍国主義をした人が民主教育、百姓になろうと思った。子のために命を捧げるのが教師、と言われて。戦争孤児からの手紙(中国で教師になった人)たどたどしい日本文、33歳、1942年生まれ、長野県開拓団の人の子。中国人に預けられた。173㎝、12月25日に取った写真を同封。
⑤野口さんに勧めれた本『満州移民を拒否した村長』。その村長は、事前に満州へ行き、入植する地を視察。おかしさに気づき、のらりくらりとかわして、開拓団を送らなかった。自主的に行った人はいたが、村としては開拓団は送らなかった。全国27万人、長野県3万3000人、そのうち8000人が南伊那の人たち。
説明補足
①しっかりした首長を持つことが大事だと思った。日本のリーダーはそんな見識を持っているか、
考えながら今日も運転してきた。満蒙に首相は謝罪も反省もしていない。
②本多勝一の本、『中国の旅』紹介。
③長野県の昆虫食:蚕、イナゴ、蜂の子、ザザムシの缶詰、瓶詰が展示してありました。イナゴの佃煮を持参され、参加者がイナゴの佃煮を試食・・・感想・エビの感触
質疑応答
質問)満目開拓の話を18歳までに聞いたことがありますか?
・聞かなかった。
質問)満蒙開拓平和記念館について教えてください。
・記念館が当初できた時の来館者は、3万人。予想していた人数は、5000人だったそうなので
だいぶ多い。現在は、2.6万人。館長は寺沢秀文さん。事務局長、他2名の職員、ボランティアガイド
は10人養成しているとのこと。
質問)満州行きを断った人には、その頃締め付けはなかったのか?
・あからさまに反旗を翻すことはなかった。村議会で可決する時、別の議題をだして、のらり
くらりを時間稼ぎをしているうちに、終戦になった。
国家総動員法があり、加害のこともわかった。
参加者の声
・(夫の父がシベリア抑留で死んだという女性)周りに戦争のことを話したくない人がいた。
満蒙開拓も同じではないか。
・(昭和20年生まれの男性)戦災孤児の同級生が、ノートを買うお金がなくて消しゴムで消して
使っていた。両親を失って苦労し、その後も苦労したと思われる。
・長野県は、315事件、左翼的な教員の逮捕、その後、思想取り締まり、転向。そこへ満蒙のノルマ。そのような要素も原因となり、満蒙開拓団を送り出した人数が多いのでは。
・学校教育が本当に必要か。優秀な人達が戦争を始めた、結論は、「優秀な人は愚かだった」
拒否できるのにしない。圧力がかかり、国策ではあったが、地方には一定の裁量があった。マイナンバーも拒否できる。戦争中の出来事を、今の状況がリンクしていることを学んでいくことが重要。
生きるために人を蹴落としてでも、という我が身がある。自分の身にふくらますことが大事。
満州引揚者は、帰国後も開墾地を割り当てられ苦労した。
降旗さんより
「首長は、しっかり選ぼう、現場で直感したことを活かそう」
そんな世間に訴える記事を作っていきたい。
そして、この集いの意義、冊子にできたら貴重な資料になると思います。
時は、2022年へ・・・
降旗さんが、「この「集い」を記録として残したらいいですよ」と言ってくださった日から、
2年半が過ぎました。
その言葉が、魚の骨のように刺さり続けていたことが、この「ブログ記録集」の今、です。
「記録する」ことにほとんど関心のなかった私ですが、作成し始めて、自分自身が当時、どのように感じ、思っていたのか、を知ることのできるものとなりました。
2022年5月現在、降旗英峰さんは、毎日新聞大牟田支局に勤務されています。
大牟田市も、石炭の町として劣悪な環境で働かされた人々が大勢いたと思います。その事実を体で知るためにも、降旗さんに案内ガイドをお願いして、大牟田の町を廻ってみたいです。
降旗さん、大牟田支局での戦争体験の取材記事です。
協力:記録メモ 田頭壽雄さん 筆責:山下春美
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