「第六垂水丸遭難事故を語り継ぐ」資料展・講演会開催来場者アンケート結果報告と「講演会前半部分」

2024年

2025年2月1日~29日まで垂水市立図書館で、「第六垂水丸遭難事故」を語り継ぐパネル展と6月22日(土)は、講演会が開催されました。昭和19年2月6日に第六垂水丸が遭難してから81年目。

コロナ禍を経て、久しぶりの講演会開催に多くの方が来場され、関心の高さを感じました。

以下、来場者のアンケートが主催団体である垂水史談会さんより届きましたので、感想を含めて、以下まとめてあります。

アンケート結果は、来場者の感想を知ることができ、今後開催する際に生かされていくための大事な参考資料となるようです。

←の表のシールは、「良かった」「普通」「良くなかった」の3評価のいずれかにシールを来場者が貼るものです。

 アンケート結果

◇どちらから来られましたか?
垂水市 19名 鹿屋市 6名 霧島市 2名 曽於市 1名 肝付町 1名 
鹿児島市 1名 宮崎県 1名 愛媛県 1名

◇年齢 ~10代  1人(垂水小2年)  11~20代  2名  21~50代 12名
                  21~80代 23名  81代以上~   2名

◇この展示会を何でお知りになりましたか?

ポスター・市の広報誌6名  図書館に来て 9名  新聞 9名 知人 6名 
他 (史談会を通じて・インターネット・口伝え)

◇展示会の感想、ご意見、または体験などをお聞かせください。

・この事故の話は以前から知っていました。私も、この話を知らない友人などに語っていきたいです。

・内容について聞いた事はありましたが、詳しい中身は知らなかったので、知る機会があってよかったと思いました。

・戦争は絶対にしてはいけませんね。まず、弱い立場の人達が犠牲になります。

根占の川元ヨシ先生、海潟の福浦絹子さん、あのような悲惨な状況の中で、自分の膝を紐で縛られて、両足が開かないように、縛られた状態で亡くなられていた。その事実に驚嘆します。ご婦人の鏡というより、人としての誇りを感じます。日頃からの心がけの賜でしょう。

・海に投げ出されたときにボストンバックにつかまり助かった、と書いてあったからビックリしました。(垂水小学校2年生)

・来てよかったです。良い見学ができました。どんなことがあっても戦争は絶対にしてはいけません。話し合いましょう。

・日本に限らないが、昔も今も人命尊重をうたいながら、安全管理のための遵守すべき事項をおろそかにして、犠牲となる人々が昔も今のこれからも少なからず生じる。一人一人が自分と家族の安全のために努力を惜しんではならないと思います。

・戦争のことについてたくさん知りました。私も小6の時に修学旅行の時に知覧に行ったので、図書館に来てまた詳しく知りました。

・戦争はよくないと思いました。

・私の母もこの日、鹿児島へ行くためこの船に乗る予定でしたが、母の姉より、お魚が届いたためそれをこしらえるため、乗船をおくらせた、と聞きました。生死を分ける母の運命だったんだと聞かされました。

・初めて知りました。資料もあり、声が聞けて良かったです。

・毎年、見に来ます。

・改めて平和について知ることができて、とてもよかったです。もう一度、平和について考える機会ができて良かったです。命の尊さがとても伝わりました。

・忘れてはならないことだと思います。

・すばらしい内容でした。

【講演会参加者の感想】

・叔母から事故の話は聞くものでした。(あったということ)

詳細は知りませんでした。体験者、船長の親族の方の話が聞けて、胸があつくなりました。伝えていくことの大事さも感じました。

・語り続けていくことの大切さを感じることのできた展示ですね。鹿屋から生存者の田尻さんが来てくださったのも約一か月間、展示されていたからだこそと思います。戦争が始まれば、勝たねばならない空気になるのは、今も変わらないではないかと思いました。だからこそ、戦争を問題解決の手段として選ばない世論であり続ける行動が必要だと思いました。

・田尻さんの実話に感動しました。すばらしいと思いました。ありがとうございました。※森山さんの話・・・おじさんが船長だった、実話ありがとうございました。

・当日の事を証言して頂き、感動しました。私の両親は、大正14年生まれで、もう亡くなりましたが、いつまでもお元気でいてください。

・事故の背景や当事者の話を聞いて、真実の一部を知ることができました。タイタニックを頭の中でダブって聞けました。話を聞いて、物語が作れそうです。

・良い体験を聞きました。まだ、他の人の体験を聞いてみたいです。

・田尻さんの話が聞けたのが、とても良かったです。

・今回の体験者の貴重なお話は、リアルで良かったです。

・大6垂水丸の生存者が来られていたのに、びっくりしました。語り継ぐことは大切です。補償問題はなかったのか?耳が遠くなり、聞き取れず残念でした。

・大変貴重なお話、体験談を聞けて、ありがとうございました。

・田尻さんの体験談は、貴重で有難かった。山下さんの戦争体験への深い考察に感銘を受けた。

・垂水丸のことでも知らないことはもとより、当時の戦況や民衆の心理まで言及されており、非常に学びになりました。歴史を鏡とした今の我々の生き方が問われている事と思わされました。

無料貸し出しでAボードがあるといいと思いました。机がわりで字が描きやすいと思います。
個人的には30枚持っているので、次回良かったら持ってきますので使ってください。

当事者の貴重な生の声ですが、私の座っているところは、横から後ろからカメラのシャッター音がパシャパシャ聞こえて、冒頭部分は何も聞こえませんでした。なので、中盤からの感想となりますが、体験談として聞く垂水丸の話は、たんなる過去の済んだ話ではなく、その方の苦悩や悲しみの声として聞こえてきてたいへん重いものでしたが、これを伝えていただいたことも受け取った人がいることも誠に意義深いことと思いました。

「第六垂水丸遭難事故」と「その時代について」 山下 春美

 2月22日(土)、垂水市立図書館で、第6垂水丸遭難事故の体験者、田尻さんの前に話をさせていただく機会を垂水史談会の方から頂きました。事前に、当日話す原稿を史談会の瀬角さんへメールで見ていただいていたにも関わらず、私は当日、全く原稿通り読まず、とりとめのない話をしてしまいました。改めて、このブログにて私が話す内容だった原稿を投稿させていただきます。本当にすみませんでした。

「第六垂水丸遭難事故とその時代」  2025年2月22日(土)垂水市立図書館

 はじめまして。山下春美と申します。主催者のお一人、瀬角龍平さんとのご縁は一昨年、垂水市文化会館に日中戦争時代、中国に出征した垂水市出身の青年の手紙が残されている、ということを知り、私が関心を持ち、その資料展示会を昨年、重富の資料館でした時に、いろいろご指導していただいたことがきっかけです。

 私は研究者でもないので、学術的なことを話すことができませんが、先人達が生きた戦争の時代というのは、一体なんだったのか、その時代を生きた人たちの心情というものはどんなものだったのか?ということを含めて、第六垂水丸遭難事故とその時代について3つに分けてお話をさせていただきたいと思います。

1つは、第六垂水丸遭難事故についてのおさらいです。

当日の事故の原因は、ここ(市立図書館)の展示資料で示されている様にご存じの方も多いと思いますが、記憶に留めるつもりで、確認してみたいと思います。

 第6垂水丸遭難事故は、昭和19年2月26日朝の9時50分、港の約200m沖の残橋付近で方向転換する際にバランスを崩して、転覆沈没しました。

その理由は、定員340人に対し、2倍を超える700人を乗せて出港したため。
では、なぜ、定員超過をするほどの人を乗船させたのか?

  • それは、戦争のために国が民間の船会社から、船を徴用したために、船が少なくなり、通常、鹿児島垂水間を14往復していた定期船が4往復しかできなくなった。
  • 日曜日で、大隅半島から鹿児島へ遊びや病院受診で出掛ける人が多くいた。
  • 鹿児島市から戦地へ向けた兵士たちの出発日であり、最後の面会となるかもしれないと思い、多くの家族が鹿児島市内へ行こうとした。
  • 定員超過で出発を躊躇していた船長へ向けて、軍人が出港しろ、と軍刀で脅かしたので、出港せざる得なかった。などの理由です。

 転覆後の様子やその後の市民のみなさんに様子については、この後の田代さんに語っていただきたいと思います。

 戦後、この遭難事故については、昭和51年岩崎与八郎氏が、33回忌法要を行い、現場近くに慰霊碑を建立されました。さらにそれから33年後の平成21(2009)年2月に33年ぶりとなる第六垂水丸沈没慰霊祭が行われ、2010年(平成22年)には慰霊碑を現場海域を望む場所に移設し、銘記碑が建立された、とのことです。遺族会は70回忌を最後に終了しましたが、2月6日には遺体収容現場となった光源寺で法要が行われたという経緯です。

 遺品や写真は、NPO法人文行館から垂水市教育委員会が引き継ぎ、垂水市社会教育課文化係で保存。毎年2月に垂水市教育委員会と垂水史談会で「途切れた記憶を呼び戻す・・」ということで、この場所で開催しておられます。私もここ数年、見学させてもらっています。
 81年前の遭難事故から、33年経って慰霊碑が建てられ、その後もまた33年後に慰霊祭が行われた、という風にあまり公にされてこなかったという一面があるようです。

2つ目は、転覆事故が起こる原因を生み出した時代についてです。

 先ずは、垂水と鹿児島間の定期航路に使われていた民間船が戦争のために持っていかれていた、ということです。
昭和16年12月8日から日本では戦争が始まったように思われていますが、すでに日本は中国で戦争をしていました。昭和12年1937年に盧溝橋事件をきっかけとして日中戦争が始まっていました。

翌年、昭和13年に日中戦争の長期化により、国家総力戦にむけて国家全ての人的、物的資源を政府が統制運用する総動員に関する法律が施行されました。国家総動員法です。

その国家総動員法に基づき、昭和17年「戦時海運管理令」と勅令が出され、「政府は、戦時海上輸送完遂のため船舶を徴用す」とことで、皆さんが薩摩半島、鹿児島市へ行く貴重な足である、定期航路戦の船が取られていったわけです。これは、法律に基づいていたことなので、だれも反対することはできませんでした。

戦後を生きている私たちの生活は、基本的に自分の考えで生きることができます。日々の暮らしは、「面白いテレビを見たい」とか「ご飯作りたくないから外食しよう」とか、「どこか旅行に行きたいな」とかそういう楽しみを考えることも許されます。

しかし、中国で戦争を始めた昭和13年から昭和20年8月15日まで、日本国民である私たちの生活は「国家が戦争で勝つ」ことが全国民共通の目標として、その達成のためにいろいろな法律をつくられて、人間の生活が国というシステムによって縛られていた時代です。それは、人だけでなく、船もです。人は、兵隊として徴兵され、船は徴用され、それが当然のことであったのです。

 そういうことも含めて、①で垂水丸の遭難の原因をおさらいをしましたが、一番の根本原因は「戦争」です。終戦までの生活は、規則、統制、動員、供出、配給、など、すべてが戦争のためであり、戦争に勝つために国民が存在している、と言ってもよい時代だったのではないでしょうか。

「戦争だったから仕方がなかったのよね・・」ということを思われる方もおられるかもしれませんが、戦争が起こると、どんなことが起こるのかをしっかり直視しなければ、同じ事が未来に起こるかもしれません。

3つ目は、今の時代と重ねて、同じ事が起こらないようにするための手立てを考えることについてです。

その手掛かりとして、資料に展示してある新聞記事のー「65年目の証言」5ーで水島久光教授が述べられている最後の言葉を手掛かりにしたいと思います。

教授が遭難事故が伝承されてこなかったのは、「強制的な力だけではなく、体験を家族にさえ語っていないケースなど、住民側にも抑制が働いていた」「出来事を語るには、一定の距離が必要だが、事故は町全体が当事者となり、あまりにも距離が近すぎた」「町中の家に忌中の札が貼られ、話す雰囲気」はなかった」というコメントです。

これは、権力者が最も手軽な手段として国民統制に利用する※「自主規制」として、国民が国民自身で権力者の思想統制にはまってしまう現れの一部に感じ取れました。

展示してある証言資料の中に、事故の次の日に学校に呼び出されて「事故のことは口外しないようにと」戒厳令が下った証言を読みました。このような命がくだされながらも、人々の中には「自分だけ助かってしまった」という罪悪感と親しい人を失くしてしまった深い悲しみ、経済的困窮の未来を背負わされた苦悩でいっぱいで、事故について語ることを封印してしまったのだと思うのです。人々はそれらの原因は、「戦争」であるということをわかりつつも、そのことを言う事は、とんでもないことであったので暗黙と沈黙の中で、戦争への抗議や非難をかわすことにうまく利用されていったのではないかと思うのです。

しかし、この自主規制というのは、今を生きる私たちの生活にもしっかり起こっていることだと思うのです。

特にそれを自分自身に感じたのは、戦争遺児の方とお話をした時です。戦争遺児のお父さん方は軍人として戦争で亡くなっておられるので、英霊として靖国神社に祀られているのですが、私はそれには、浄土真宗の教えを聞く真宗門徒として疑問を持っております。

 なぜなら、戦争で愛する父親や兄、弟、夫を失った悲しみを封じ込め、英霊として祀ることによって、褒めたたえ、国のために命を失わさせることを喜びと変えていってしまう装置として用いられるからです。

 この世に存在するいのちは、誰かの所有物でもなく、誰からも利用されるものでもなく、愛し、愛されるためにいのちは存在しつづけるものであります。

と、私は思っているのですが、戦争遺児の方に向かっては、靖国神社に対する私の私見を述べることは、忖度(相手をおもんばかる)という「自主規制」によってしませんでした。

 このように私は自分自身の身をもって、権力者の思いが向かう方向に思想統制されていくのだと身感じたのです。

戦前と同じように、権力者の思う描く、都合の良い方向に私たちの生活が統制、規制されていかないようにするために私は、自分は死ぬ存在である、ということを認識することだと思います。

自主規制してしまう潜在意識の自分は、周りの人から異質な存在と思われたくない、ということです。ですから、周りの人と同じような意見を持ち、同じように暮らすことが常識的で、後ろ指刺されない人生を生きる事、だと思うのです。

でも、自分が死ぬことを考えてみてください。人の目を気にして、疑問に思うことも言わず、行動もせず、その結果、子孫に残す未来は、戦争が再び起こる世界だとしたら、どうでしょう?

悲しいではないですか? 
人間は生まれて生きて、死ぬことは誰でも平等に与えられた希望です。
死ぬときに、自分のいのちを精一杯生ききった、と思えるように死ぬためにも、自分の周りで起きる出来事に、疑問を持って考えて生きていきましょう。
それが、戦争という悲劇を再び起こす可能性を低くすることだと思っています。
≪これが当日私の話したかったことです。(>_<)≫

※自主規制:個人や団体が批判や干渉、公権力の介入を避けるために、自らの活動に制約を加える事。国民が自ら斟酌(先方の事情を汲んでやること。条件などを合わせて適当に処置すること)

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