製鋼所
深志さんも翌日から昭和製鋼所の製鋼課に勤務することになりました。
昭和製鋼所の作業員は、日本人二百名、中国人三百名、計五百名でした。
日本人の二百名中、百名は、熟練工。他の日本人、中国人は全くの新米でした。その新米に深志さんは入っていました。製鋼工場の主作業である平炉、造塊《ぞうかい》、運転等は日本人で、補助、見習いとして中国人も大勢働いていました。
深志さんが言うには、社宅から会社まで歩いて十五分かかるようです。守衛室でタイムカードを押して製鋼工場まで十分歩く。朝の通勤時、広い道路にいっぱい連なっている中国人の群の中を歩くと、ニンニクの強烈な匂いにムッとするほどだそうです。
月にニ〜三回は夜勤もありました。夜勤の日は弁当をニつ持っていくのです。昼ご飯と夜ご飯です。
最初は、夜勤はきつそうでしたが、人間、慣れてくるもんだと言って笑っていました。
その頃の私たちは、お金は無いけど、愛と笑いがいっぱいありました。
会社に慣れてきた頃、周りは日本人、満州人、朝鮮人といろいろな人々が働いている中で、日本語で指示が飛び交います。
深志さんも指示に従い、作業を続けるうちに忙しくなると焦り出し、つい話す言葉が「鹿児島弁」になってしまうのだそうです。
「わいたちゃ、なよしちょっとよ!(お前たちは何してるんだ!)」こういう言葉が出てしまうのです。
そうすると、日本人からは満州人と思われ、満州人からは朝鮮人だと思われ、朝鮮人からは満州人だと思われて、結局最後は笑って、おしまいになっていたらしいのです。
尋常高等小学校しか出ていなくて、あまり難しい漢字や言葉の意味がわからないと言って、周囲の人や私が知っている漢字などは教えたりしていてすごく勉強していました。
ある日、私に「骸炭はコークスと読むのか?」と聞いてきたので、「骸炭(がいたん)は漢字でコークスの事だと思いますよ。」なぜそんなことを聞くのかと思ったら、製鋼課の資材置き場で、コークスのところに「骸炭」と書いてあったそうで、コークスは製鋼所では一番使われる燃料で、コークスが時に「骸炭」から持っていくのでそう思ったらしいのです。
こんなこともあったのです。
鞍山の役所で住民登録するのに、「妻 夏江」と書かなければならない欄に「毒 夏江」と書き、失笑を買ったのです。
自分は社会に出てから勉強したと言っていました。私もその通りだと思いました。
そうしながら最初の年の瀬を慌ただしく迎え、二人とも正月で一歳ずつ歳をとりました。
私は、二十六歳、深志さんが二十九歳。はじめての満州での正月。(この頃は生日に年齢が増えるのではなく正月に一斉に一歳ずつ年齢が増えていたのです、数え年の事)
中国人は、旧正月を祝うらしく、私たちみたいに一月一日を正月とは思っていないようです。
私も餅を少々手に入れて、エビの出汁で白菜を煮た餅入り雑煮をなんとか、作ることができました。材料の手配とか、ここの食材での作り方なども志づさんに色々と教えてもらいながらの正月でした。なるべく川内で食べていた味に近づけるように工夫をしながら作っていました。
ここ、満州の食べ物で「チェンピン」というものも売っていました。粟を馬が挽いて粉にしたものに水を加え、大きな鉄板の上で直径50センチ位に薄く伸ばして焼いたもの、これに味噌とネギをのせて巻いて食べるのです。
初詣も行かなければならないということで、社宅から南に五分位のところの山稜に「鞍山神社」があるのです。そこが、ご利益があるとの事だったので、二人で出かけ、願をかけて参りました。
深志さんは何をお願いしたのでしょう?
私は末永く健康でいられますようにと願っていました。
もうその頃から、時局は戦争気分でしたが、この日は日本人みんな新年を祝っていました。
「満州ではじめての正月ですね」
「日本も広くなったなぁ。満州も日本のものだからな」
「でも、ここはやはり他人《ひと》の国ですよ」
「そげなこと、言うもんじゃない」と深志さんから諌められました。
人と違うことを言うと隣組でいじめられることを気にしてのことだったのでしょう。
それでも私はよその国民から土足で上がり込まれているような満州人が、気の毒に思えて仕方なかったのでした。
なぜなら満州での配給は、民族による差別があり、日本人は米、朝鮮人は粟、中国人は高梁が基本とされていて、中国人はたとえお金があっても、闇で米を買って食べる事は食糧統制違反を犯すと言うことになっていたのです。米に不自由しなかったのには、こんな差別的配給体制があったからなのです。こういったことも終戦間際に知ったのです。
それでも、支那人はとても丁寧でした。自分たち同士では支那語で話していますが、私たちには日本語を使っていたのです。
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