父の声
「熊五郎さんを呼んできてくれ」とうめき声の中から絞り出したのです。
熊五郎さんとは、20年前の日露戦争で出征し幾多の功績を挙げ、今では田崎の消防団長をしている人です。
私は弟の政盛にその場にいるように言って、走って母を呼びに行きました。
やっと母のところに着くと母は鶏糞干しをしている最中でした。状況を説明して、熊五郎さんを呼んできてもらって、父を山から運び出せたのです。
いつもは山で木に登っている父が、なぜ木から落ちたりしたのでしょうか?
あとで父が言っていたのですが、私たちが梅の実をまた食べるんじゃないかと気がかりで、下のほうについ目がいってしまって、雨で濡れている枝に乗せた足を滑らしたのだそうです。
その時ほど、父に申し訳ないと思った事はありませんでした。
毎月四の日、4日、14日、24日に向田で立つ市の四日市に我が家は農産物や杉下駄を持っていき、商品と交換したり販売したりしていたのですが、この月は父の怪我で四日市で販売できず、収入が少なくなったのです。
なつかしい友だち
近所に幼なじみでいつも一緒に遊んでいたエッちゃんがいました。私の一番仲の良い同級生でした。
エッちゃんのお家は士族の出で裕福な有村家でした。
エッちゃんの家は兄弟がみんなエッちゃんより年上で、私の三つ下の弟の政盛が可愛かったらしくいつも三人で家の近くを流れている「平佐川」で遊んだり、田んぼのタニシを捕まえたりして元気に過ごしていました。
平佐尋常小学校に入学すると、隣の席に久保キヌエさんが座ることになりました。キンちゃんと私の家は少し遠いのですが、エッちゃんの家からはそんなに遠くなく、ある日の学校から帰り道、私とエッちゃんは二人で道草をしてキンちゃんの家に遊びに行こうということになりました。
キンちゃんの家に着いたら私たち二人を見て、キンちゃんはびっくりしていました。その顔がおかしくてニ人で笑っていました。キンちゃんの家はそんなに大きくなく、納屋と母屋がずいぶん離れていました。私たち三人はかくれんぼをすることになり、最初私がオニになりました。
ふたりを探すため、納屋と母屋を行ったり来たりして探すうちに母屋の中の一番奥まったところに押し入れのような小さな襖を見つけ、サッと開けると暗い座敷牢のようなところに身体の不自由そうな小さな男の子が寝転がっていました。私はびっくりしてみてはいけないものを見たような気がして素早く襖を閉めたのです。
その時にはその事は黙っていましたが、学校を卒業する前にキンちゃんにその事を謝るつもりで言い出しました。
「キンちゃん、実は最初キンちゃんの家に遊びに行って、かくれんぼした時に奥まった部屋に男の子がいたのを見たの。でもその時、その事は言えなかった。」と、初めて打ち明けたのでした。
キンちゃんは悲しそうな目で「弟の達男なの。生まれた時から脳に病気があり、起きることも話すこともできないの。だからお父さんが世間に出せないと言って部屋に閉じ込めているの。でもタッちゃんもこの頃は少し話せるし、私を見ると動かない体をバタバタさせてよろこんでいるわ」
この頃、障害のある人は社会の片隅に追いやられ、生きる価値がないくらいの扱いを受けていたのですが、私もまだ小さかったのでその時のキンちゃんの深い悲しみはよくわかりませんでした。
のちに私が鞍山で病にふせって、体を動かす事が出来なくなった時、タッちゃんの事を思い出しました。
タッちゃんはその後どうしているんだろう?
キンちゃんとは尋常小学校を卒業してから会っていないので、タッちゃんの事はわからない。
どうか自分の人生を悔やまず、あきらめず過ごしていてほしい。
また、この頃は、不具者(障害者)は戦争日本の社会の役に立たない物(者)として邪魔者扱いされている。
でも私は自分が病気になって今はそうは思わない。
タッちゃんがいることで、キンちゃんは生きる甲斐があったじゃない。タッちゃんは立派に生きている価値があるわ。
どんな事があっても、生きる価値のない命なんてないことを私は思い知りました。
昭和5年になると、私たちも平佐尋常小学校から尋常高等小学校に進学し、そして尋常高等小学校を卒業する年齢になりました。
ほとんどの友だちが奉公に行くか、家で子守をするしかない中で、エッちゃんは上の学校に行くことが決まっていましたが、私は小学校で終わりのつもりでいたのです。
本当は上の学校に行きたかったのですが、お金がかかるので迷惑がかかると思い、親に言えずにいたのです。小学校卒業間近のある日、父が「ナツエ、行きたかったら千台高女に行っていいぞ」と突然言い出したのです。
「ええっ、いいの?」とうれしくて聞き直したくらいです。
エッちゃんと同じ学校です。私はすぐにエッちゃんに言いに行きました。
「千台高女に行ってもいいって言われた。」「良かったね。また一緒に学校に行けるね。」と二人で喜びあったのでした。
そして、私も明治37年開校の、平佐にある川内で二番目の私立女学校の門を晴れて4月に無事にくぐることができたのでした。
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