与論島から満州へ渡った『与論島開拓団の記録』

2022年

前回の寺沢秀文さんのお話の中にもありました鹿児島県から送出された開拓団で与論島から満州へ渡った「与論島開拓団よろんとうかいたくだん」があります。
戦後、引揚げてこられた皆さんが再入植した場所は、現在の肝属郡錦江町きもつきぐんきんこうちょうの山中の「盤山開拓」ばんざんかいたくと言う戦後開拓地です。

前回の『満蒙開拓つれづれ草』を読まれた方より、下記の情報提供がありましたので、引用・紹介させていただきます。

昭和40年8月7日付 南日本新聞9面 風雪二十年 ある人生記録〈2〉盤山開拓団  血みどろ土と戦う お茶で築いた第二の村

「与論島開拓団」からの引揚者らが再入植した「盤山開拓」の開拓記念碑「拓魂」(2022.8.1。鹿児島県錦江町田代「盤山開拓」」公民館にて)
撮影:寺沢秀文さん

■全国第二位

 「オレたちのお茶がよ。全国第二位だったよ」報告を受けた組合員は、抱きあって喜び、涙がこぼれた。全国製茶品評会第二位。「皇太子殿下にさしあげたらどうかな」一枚、一枚、祈るように厳選されたお茶は、来鹿された皇太子ご夫妻に献上された。宮内庁からは、お礼状一本届かなかったが、このお茶には、原野にクワ一本でいどみ、土とともに生きぬいてきた開拓農民の“生きる希望”が“ど根性”がこめられていた。

 鹿県開拓農協のモデル、とまでこそいわれ、共同製茶工場を持ち、一戸平均1.7㌶の田畑、お茶と和牛で粗収入百万円をめざす盤山農協(肝属郡田代町)の人たちだが、二十年の道はけわしく、暗かった。岩につまずき、風に倒され、干ばつと戦いぬいてきたのだ。

■分村…入植

 満蒙に第二の故郷を・・・。狭い大島郡与論町から集団移住して、満州に与論の分村を計画したのは19年3月。与論青年学校の教師だった伊藤左江吉さんを団長に、経理指導員町清之進、農業警備指導員池田福利さんらが、先発幹部として内原訓練所に入り、役場につとめていた田畑元則さんらはハルピンの基幹養成所で訓練を受け、与論をあとにする。満州錦州省盤山県に適地を見つけ19年10月には家族を招き、120世帯、630人の与論分村が生まれた。

「人だねがたえてしまう」という与論の人たちの心配をよそに池田さんらは血判状まで書いて、県に陳情したものである。意気込みもあふれ、60㌶を開き一回めの作物は全部供出するほどで、盤山県のモデル開拓団となる。だが戦争は激しくなり、18歳以上の男子はみな軍隊にとられた。

終戦、現地解散。家族の待つ盤山に帰ってみると、満人や盗匪の襲撃を恐れた女、子ども54人が自決、冷たいむくろで、夫を父を待つ姿があった。町さんもこのとき妻子四人を失っている。傷心の開拓団をどうにかまとめて引き揚げ、最後に残った同士だけが、田代町稲尾岳ろくに再び入植したのである。

 大野原、野方はじめ川内地方と敵地を見てまわったが、最後にきまったのがこの田代。町の麓からは20㌔。原生林が茂り、木こり道一本の山奥だったが、150㌶の開田可能という県振興課の話と二すじの小川につかれて入植地にきめる。21年7月18日だった。

■死んでも離れぬ

 先発隊がのりこみ、まず伐採からはじめたが、平地はほとんどネコのひたい。胸をつくような傾斜地ばかり。丸太小屋の共同宿舎を建てテント張りの合宿生活。「落ち着くまでは受け入れできない」という町の方針で、配給も受けられない。鹿児島市の引き揚げ援護寮に籍をおき、わずかな配給物資を、船で、徒歩で、かつぎこんでの開拓。はじめの話とはずいぶん違い、早くも脱落者が出たが「われわれに故郷はない。満州で一回死んだのだから、がんばろう」

 満州の苦しみを忘れぬためにも盤山県からとって、その名も盤山開拓地と名づけていどんだ。山を焼き、ソバを作る。食える草木はなんでも口に入れ、町かたから でんぷんかすをもらってきては干しかため焼いて食った。苦難のどん底にも希望の火はともった。再婚した町清之進さんに長女、京子さん(現在、佐多町郡小教諭)が入植日に生まれたのだ。

■盤山を汚すな

 24年、デラ台風では部落のほとんどが倒壊した。作物は枯れ畑地は流れる。それにも増して痛ましかったのは三人の犠牲者。町長島さん(46)の妻トミさん、生まれたばかりの栄子ちゃん(当時4つ)が家の下敷きとなって死んだ。台風にやられ、31年、32年は干ばつ。その日の食糧さえない。だが、盤山の人たちは決して他人のものに手をかけなかった。

「われわれは、ここに永住するのだ。田代町の人たちに後ろ指をさされるようなことをしたら、安住の地はなくなるぞ」きびしい部落のおきて。団結はかたく、みんなが町の模範農民になろうとという意欲を苦しいときにも捨てなかった。子どもに夢をたくし、町立田代高校(定時制)には毎年盤山の子が数人、二十㌔の道を通う。

 体質改善も進み、米、カンショから、お茶7.5㌶、和牛50頭、タバコ耕作農家まであらわれ、換金作物への転換も順調に進む。がんばり強く教育熱心な“盤山魂”はようやく町民の共感を呼び、伊藤さんは町教育委員で、町さんは町議でPTAの会長さん。池田さんは町農業委員。町政に参画する人材も育ってきた。

 田畑元則組合長(47)は「二十年。やっと基礎ができた。お茶も品質がよく1㌔1,700円(普通は500円)です。緑茶+根性+和合+和牛が盤山のスローガン。一戸200万円を目標にしています。」と語る。

 毎年7月18日の入植記念日に犠牲者の霊を慰め、一年の計画を立て、みんなの畑をまわっては痛烈に批判しあい、改善点を見つけ出す。保護世帯も一戸だけ。これも近く返上とか。「みんながそろって豊かになり第二の与論村を築こう」というわけだ。

開拓二十周年の41年は水道建設、先進地視察を計画、41戸の“盤山村民”はそれを楽しみに、クワを振っている。

感じたこと

昭和40年、与論島の古里には帰らず、新たな土地で険しい地を開墾してこられた方々の戦後20年の健闘の証しであり、人々の営みの記録の一片であるように思われます。

記事から51年。盤山を訪れてみたいです。              筆責:山下春美


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