先月(6月13日)に鹿児島大空襲の体験を話してくださった東郷京子さんは、鹿児島駅空襲も体験されました。
以下、東郷さんが体験された鹿児島駅空襲です。(東郷さんが書かれた文章より)
疎開
6月17日の大空襲で心身ともに疲れ果てた私たち家族4人は、桜島にある母の実家へ身を寄せた。
(桜島も危ない)という懸念もあったが、6月17日の夜、罹災した中島の徳三叔父の一家も母の実家へやってきていた。実家は一辺に多人数となり、賑やかな日々が続いた。
この状態では、迷惑と思ってか、母は三熊叔父宅の牛小屋の2階を借りるよう相談した。
私たちは牛小屋の2階に移り、牛と同居の生活が始まった。そして、私はここから会社へ船で通勤した。
※会社・・・鹿児島駅前にあった日通
度重なるB29のお目見えで、間もなく船も欠航となった。病後の私には体を休めるためには、欠航ということは幸い、と思ったが、母の生活費のやりくりに懸命のようだった。
死線を越えて~昭和20年7月27日~
「オーイ、船が出るぞー」
船の人の声は、浜中に響き渡った。欠航続きの古里丸が久しぶり鹿児島へ出航したが、その船が湯之村を過ぎた頃だった。
「どうも情勢が悪くなりそうなので、帰りは鹿児島を正午に出航します。」
船賃を集めに来た船の人は申し訳なさそうに乗客の人たちに、そう言いながら集めて回った。
6月17日の戦災で鹿児島の街は一変していた。城山辺りと上町・下町には瓦礫があちこちに積み上げられていたが、周囲は殆ど瓦礫のまま電柱や大木も黒焦げになったまま立っていた。あの夜の空襲の凄まじさを物語るように・・・・鹿児島駅・日通・大龍小学校の周辺だけが残り、僅かに昔をとどめ、どこか遠い所に来たように感じた。
長期の欠勤の後の早退は、何となく後ろめたさを感じたが、私は出航30分前に会社を出た。
会社を出た私は、散髪屋のスマ小母さんに呼びとめられた。
「私も古里(桜島)へ帰るから、一緒に行こう」「お茶いっぱいでも」と、ためらう私に、
「お茶いっぱいということもあるョ。人がすすめる時は素直に聞かなきゃ」
店内には、私と同じ6月17日に罹災した洋服屋の美代之オジさんと煎餅屋の岩本のオジさんが談笑していた。そして、性急(せっかち)な私を見て、笑いながら言った。
「そう急ぐなよ、オジさん達も同じ船で帰るのだから」
ドカーン!
大きな音がした。警戒警報と空襲警報のサイレンがあいついで鳴り響き、すかさずB29の爆音!!
メリ、メリ、メリ、ドカーン!
大きな音と共に、砂煙りが立ち込め、店の鏡は粉々に飛び散った。
「オジさんの後について来るんだョ」
戸外に飛び出した私は、言われるままに岩元のオジさんの後を追った。スマ小母さんや美代之オジさんの姿はなかった。桟橋へと急ぐ二人は大きな黒い丸い物体が、海の方から此方へ落下してくるのを見た。
「爆弾だー!」
B29は次々と低空でやってくる。スマ小母さんの家は、第一回目の爆弾の投下で崩れた。私たちが
逃げて行く周辺の家もやられ、防空壕らしきものもない。
「川の中へ飛び込もう、早く、早くせんとやられるゾ」
橋の下には、何人かの人がいた。二人は橋の下へかくれた瞬間、大きな爆音がして、グラッ、グラッ、と体がゆさぶられた。
川岸にある小原鉄工所に爆弾が落とされたらしく、橋の下はもうもうとした土煙りと木片、瓦礫で埋もれ、私たちは出口を失った。
日中というのに、夜のように暗く何も見えない。
気を失ったのか、今の爆風でやられたのか、暗闇の中で女の人が半泣きになって、わめく声が聞こえた。
「〇〇ちゃん、〇〇ちゃん、しっかりして!」
瓦礫の中で身動きも出来ず、まして暗闇の中!!どうすることも出来ない。それより、一刻も早く脱出しなければ危ない。
「岩元のオジさーん!」
大きな声で呼んだが、返事がない。どこに居るのか、どうして居るのか、存在さえ判らない。
心細さと不安で泣き出したくなった。私はもう一度、大きな声で呼んだ。
「岩元のオジさーん!」
その時だった。
ドカーン!ドカーン!
大きな爆発音と共に、大地が大ゆれにゆれた。
”第二、第三の投下だ”。
ずっと後の方でオジさんの声がした。生ぬるいフワッとした風が、私の顔の辺りや体を吹きぬけていった。
どの位、時間が経ったのか判らない。私は一人でモヤ、モヤ、モウ、モウ、とした霧の中を歩いていた。
どこかで蝉の啼く声がする。はるか前方に光が見えて、その光を頼りに歩いていた。
昔のこと、色々なことが想いだされ、涙がとめどもなく流れた。
まだ蝉が啼いている。
それにブーン、ブーンと山蚊のうなり声が耳について離れない。
追い払う積りで耳の辺りを手で払ってみた。
その声は遠くなったり、近くになったり、声が大きくなるにつれ、どこかで私を呼んでいる
ように聞こえた。
「京ちゃァーん、大丈夫かァ、どこに居るかァ~~」
「オジさァ~ん」
大きな声でオジさんを呼んだが、全く声が出ない。喉に何かつまっているようで、無理に声を出そうとしたら呼吸(いき)が止まりそう。何回となく声を出そうと試みたが矢張り、私の声は出なかった。オジさんは、崩れ落ち埋まった材木、木片をかき分け、取り除きながら、私を見つけ、助け出してくれた。
オジさんの手は血だらけ、助け出された私は全身の力がぬけたようで立つことも出来ない。
足にはべっとり血がこびりついていた。オジさんは、私を支えながら城ケ谷へ向かって歩いた。
朝まで健在だった駅舎・日通の社屋も跡形もなく吹っ飛び、陸軍の糧秣が入っていた専売局の窓から炎と黒煙がもうもうと噴き出していた。きな臭い匂いが一面に漂い、何とも表現できない状況には涙も
出ない位情けなかった。
「兵隊さん、しっかりして下さい。どこから来られたのですか?部隊はどこですか?」
オジさんは声をかけたが、その兵隊さんは血だらけの顔を血がにじんだハンカチで覆い、よろけるようにして瓦礫の上に倒れた。かすかに軍刀の音がした。
(軍用で鹿児島へ来ていた兵隊さんだったのかも)
城ケ谷の豪の前には、難を逃れた人で一杯だった。どの顔も疲れ切って、寸時の安堵と今後の
不安が漂っていた。
生ぬるく感じた爆風は、私とオジさんを痛々しく哀れな姿に変えていた。上半身、腰の周りだけ衣服は残り、下半身は棕櫚の葉をまとっているよう。
「写真でよく見る南方の土人、そっくりだネ」
オジさんは笑って言ったが、二人とも二本の足がご健在ということが何より嬉しく思った。
「オジさんはね、京ちゃん一人置き去りにして村へ帰ることは出来なかった」
とポツリと言った。その時のオジさんの顔は、仏様に見えた。
(有難う、有難うございました)
私は、心の中で手を合わせオジさんの横顔をみつめた。
(今夜は空襲は無いだろう)との情報で、二人は重い足を引きづって城ケ谷を後にした。
一刻も早く家に帰りたい、二人が無事であることを知らせたい、二人の願いも空しく、桟橋には船の
影すらなかった。市街地はまだ燃えさかり、火のかたまりは火花を散らし、夜空を真紅に染め、焦がしている。
星一つない無気味な夜は、燃えさかる空を呈して更けていく。
生への喜び
不思議と空腹感はなかった。が、ズキ、ズキと足に痛みを感じ、腫れあがった手で頭をさわってみたら、今朝までお下げをしていたフサふさの髪はなく、河童のように上部だけ残り、その毛がチリヂリに縮れていた。だが、悲しいとも情けないとも思わなかった。
驚きの余り、気が動転していたのだろう、だが、こうして生き延びられた喜びの思いの方が強かった。
赤水から船が来る
この知らせは天にも上る心地だった。
「今夜は赤水の人の家に泊めて貰おうネ」
ポン ポン ポン とエンジンの音が聞こえ、船が波間をぬって入って来た。
地獄絵さながらのこの地から早く帰りたい思いで一杯!”この船で脱出できる。
乗船して間もなく、気のゆるみもあって睡魔に襲われた。(眠るんな、眠ったらいけない、眠るな)
安堵と疲れからオジさんも眠たいだろう。私の体を揺さぶりながら、自分にも言い聞かせているかのように思えた。
赤水までのこのポンポン船で10分か15分しかかからないのに、とても長い長い時間に感じた。
「オーイ、その船にツルさんの娘は乗っていないか?有村の竹之内ツルさんの娘は乗っていないか?」
船が赤水の沖合にさしかかった時のこと、鹿児島から来る船をまっていたらしい。
「有村へ帰る人、居ますか?」
船の人が聞きに来た。沖合で待っていた船は三熊叔父の持ち船で叔父・母・親戚の人達が心配して船を出し、赤水の沖合でまっていたとのこと。
みんなに心配かけたこと、又その心情が有難く何より嬉しかった。オジさんも私の迎えの船で無事帰った。
こうして死線を越えた二人だった。が、医者を居ても薬もない戦時下、怪我や体力が回復するまで大変だった。まして、病み上がりの私は意識不明の日が続き、生死不明云々で母を一番心配させたらしい。
九死に一生を得た私、スマ小母さんのこと、オジさんの献身的な愛情は命ある限り忘れないだろう。
いや、忘れることは、出来ない。 (大正14年生 T・K)
昭和20(1945)年7月27日 空襲について 鹿児島市戦災復興誌より
昭和20(1945)年7月27日午前11時50分、市は米軍機による第6回目の空襲を受けた。6・17空襲からちょうど40日目。この空襲は晴れ上がった夏の真昼のことである。空襲警報発令後間もなく現れた米軍機ロッキードは鹿児島駅を目標に爆弾攻撃をした。その時間、鹿児島駅は鹿児島本線と日豊線両方から列車が到着した直後であり、通常でも混雑していた同駅は、この時一層、あふれるような人でごった返していた。そこへ爆弾投下。当時、県警察本部警務課勤務・有馬喜芳氏は「初めての1トン爆弾であった」と記録している。その強力な爆発力でまたまた多くの市民が殺傷され、駅や周辺の建物にも大きな被害を与えた。
〔罹災状況〕
- 被災場所 鹿児島駅、車町、恵美須町、柳町、和泉屋町
- 被災人口 8,905人 被災戸数 1,783戸
- 死者420人 負傷者650人
2022年 戦後77年目を迎えて
体験談を語ってくださったTさんは、昨年の10月にお亡くなりになられました。
Tさんを助けてくださった岩元のオジさん、お茶いっぱい、と声をかけてくれたスマ小母さん、子供の名前を呼び叫んでいた女性、道路わきに横たわっていた兵隊さん、Tさんのお母さん、船を出してくれたおじさん、心配してくれた親戚の人々。
決して、会うことのできないこれらの方々に”無性に会ってみたい”という思いが、沸き起こってきます。 文責:山下春美
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