姶良市の重富民俗資料館でパネル展「満蒙開拓とは何だったのか?」を開催しました。
(2025年10月の4.5.6.11.12.13.18.19.20.25.26.27(各土・日・月))
満蒙開拓平和記念館(長野県阿智村)からパネル13枚を借りて展示しました。
満蒙開拓とは、満洲移民推進論者・加藤完治氏の「満蒙植民事業計画書」が元となり、1932年「満洲国」が建国されたと同時に、満洲への「試験移民」が始まりました。その後、1936年、広田弘毅内閣の下、関東軍の立案で「満洲農業移民百万戸移住計画」で国策となりました。満蒙開拓についての詳細は、満蒙開拓平和記念館のHPをご覧ください。
展示パネルは、満蒙開拓が国策として推進され、人々が満州へ渡って行った背景が、当時の新聞記事や写真を添えて説明されていました。全国から約800の開拓団が満州に渡りましたが、その多くは現地の中国人の農地や家を半強制的に買い上げ、追い出したものでした。
終戦前のソ連侵攻時、開拓団に残っていたは約22万3千人で、そのうち8万人が亡くなりました。その後の引き揚げの様子、そして、残留孤児の帰国支援に力を尽くした「山本慈昭」さんについても説明されたパネルがありました。
今回の展示パネルの内容は、以下の13点についてでした。
【パネル内容】
| パネル№ | パネル内容 |
| 1.2 | 昭和恐慌と「満州国」 |
| 3.4 | 新天地「満州へ」 |
| 5 | 満州開拓団入植図 |
| 6 | 満州での生活 |
| 7 | 満蒙開拓青少年義勇軍 |
| 8.9.10 | 敗戦と逃避行 |
| 11 | 戦後の逃避行 |
| 12 | 中国残留孤児、山本慈昭 |
| 13 | 帰国者 |
来場者の感想
■日本政府がとった植民地政策によって、人生をほんろうされた人々の悲しみ、苦しみはどんなに大変なものだったでしょう。今、軍備拡大をはかる政府に腹立たしく覚えます。
平和な世界に向かってほしいです。
■今日、運よくこのコーナーを見ましたが、詳しく話を聞きたいです。今日の展示を見ただけでは、十分ではないので。(満州をなぜ本国は入手しようとしたのか・・・・?)
■長野の皆様に厚く御礼を申し上げます。大きな、パネルの資料、良くわかります。御地近くにリンゴ狩りに伺った時には、お邪魔いたしました。
■鹿児島市日中友好協会事務局のものです。「満蒙開拓」は一体何だったのか?総合的に濃縮された資料の展示、すばらしいです。
高校生が日本史の近代を習う時期にぜひ見ていただきたいです。試験、受験勉強に役立ちます。又、社会に出てからの教養としても。
■苦しかった困難の時代だったが、今となっては懐かしい想い出です。そんな道具や品物が分かった自分を、時代を親、兄弟の言葉が想い出させて戴き、有難うございました。
(付則※重富民俗資料館には、昭和の品々がたくさん展示されてあります。)
■人間のちっぱけな欲望のために外国の領土をわがものにし、その土地の人々をふみにじった時代だったんだなと思いました。
二度とそのような時代にしてはいけないと強く思います。ソ連兵への女性たちの性接待の事実は書かれていないので、センシティブな内容だとは思いますが、展示されることを願います。
■亡父が満州にいたことを最近知り、父の姉、弟も亡くなり、どうして満州に行ったのか、どんな生活をしていたのか、とても知りたい。戦争が二度とおきないように努力したい。
■何も知らない事でしたので、パネルを見させていただいて、良く解りました。今は、「戦争を語り継ぐ集い かごしま」でいつもお手伝いをしております。また、利用させていただきたいと思います。
■戦争の酷さを感じた。今でも世界で戦争はあるが、一番被害を受けるのは、民間人と子供などの弱い方々である。戦争が無い世界があれば良いと思う。
■戦争で日本は太平洋戦争まで勝ち続けたが、敗戦となると海外に行っていた人々、民間人及び、軍人は大変な思いをして帰国されたのがわかりました。帰国できなかった人は、重労働をしたりして、戦争の大変さが分かった。
■パネルはとても参考になりました。引揚者の説明がよかったです。又、行きたいです、満蒙記念館に!
■ 展示パネルの昭和54年、毎日新聞社出版の「日本の戦史」は、貴重な記録の実録に驚いた。説明文は、もっと大きくわかりやすく入れてほしかった。兵士や難民の声を、体験者の声でリアルに記録残してほしい。「日本の戦史」は、再発行してほしい。大久保直義氏(重富民俗資料館 理事長)の体験、すばらしい。若い頃での体験、戦争の中で医者となられた貴重な人間性、若い人々のよき体験談、有難うございます。(↓重富民俗資料館にあります。)

感想 山下
今回の展示期間中、鹿児島市内での行事参加が多く、週末資料館に常駐することができませんでした。来場された方々への説明や共に会話する機会をつくることが出来なかったことをとても反省しています。次回は、来場とともに満蒙開拓についての話ができるように努めたいと思うことでした。

2025年10月11日南日本新聞より


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