3月1日(土)鹿児島市民福祉プラザ5階大会議室で、「重慶爆撃と鹿屋海軍航空基地」講演会を開催し、30名近い方が聴講してくださいました。
① 1番目の講師は、鹿児島大学「鹿児島の近代史」教育センター 特任専門員 江 山さん
② 2番目の講師は、鹿屋空襲・戦跡研究員 小手川 清隆さん (次のブログで紹介します。)
江さんが話の最後にとても大事なことを言われましたので、その話を要約して最初に紹介したいと思います。
戦争を多角的に見ることは、非常に大事じゃないかなと思います。重慶の爆撃は、日本の新聞には成果として挙げられているんですけれども、中国に視点を変えてみると、実は大惨事だったと。
戦争というのは、どっちが正しいかというよりは、どの視点で、どの立場で見るか、それによって戦争というのはいろんな姿が見られるわけです。80年がたった今、戦争を振り返るということは、私にとってはやっぱりいろんな視点から、例えば一般市民だったり、当時の女性から見た戦争はどうだったのか、子どもから見た戦争はどうだったのかということが大事だと思うんです。
歴史を振り返るときには、いろんな視点が必要ということを感じていただけたらと思います。
以下が講演内容です。
(当日の配布資料、パワーポイントで示された資料はここでは添付していませんので、ご了承ください。文字起こしの協力は、鹿屋空襲・戦跡研究会・研究員の小手川清隆さんです。)
「重慶爆撃の背景と戦術的転換」 江 山さん


みなさん、こんにちは。鹿児島大学のジャン(江)と申します。
フルネームはジャン・サン(江 山)と申しますが、ジャン(江)の方は苗字になります。
今まではコウさんと呼ばれていたんですけれども、これは改名したわけではありません。
日本に滞在するために外国人は在留カードというのがあるんですが、在留カードには私はアルファベットで登録されておりまして、中国読みではジャンになりますので、仕事が始まってから、一応正式名称としてはジャンになりました。
今日の話なんですけれども、重慶爆撃の背景と戦術的転換で書いてあるんですが、
そんな堅苦しい話ではありません。重慶爆撃とはどういうものかを皆さんに解説しつつ、紹介していきたいというふうに思っております。
まず自己紹介なんですけれども、私は中国の大学院を2014年に出て、鹿児島に来たんですが、鹿児島大学で修士号と博士号を修得してそのまま鹿児島大学に残って特任助教を3年間勤めていて、今は特任専門員を務めております。
私の専門分野としては、中国そして日本の近現代歴史の方になります。修士論文では主に、この重慶爆撃をテーマにいろいろ調査して論文を書いたのですが、博士論文は主に鹿児島のことを中心に、鹿児島での空襲の記憶だったり、そういった戦争の記憶をいかに継承されてきたのかということを書かせていただきました。
ここで皆さんが疑問に思うかもしれないんですが、なぜ最初、中国の研究から日本の研究に変わったのかといいますと、これはいろんな理由があるんですが、まず自分の中でやっぱりこうせっかく日本に来たわけですから、もちろん自分の国のことを調べ、調査するというのも大事なんですが、せっかく日本にいるわけで鹿児島大空襲だったり、まだ研究されていないこともたくさんあるわけなので、それでは日本のことも研究しよう。
もともと日本のことを知ることで自分の国のことへの理解はさらに深まるんじゃないかなと思いまして、日本での研究を始めました。
重慶爆撃とは何なのかということなんですが、まず重慶爆撃が起こった背景としては日中戦争ですね。いろんな見解があるんですが、一般的には1937年の盧溝橋事件の7月から始まったということです。
1年後の1938年の秋になり、結局1年経っても日本は中国の政府を克服させることができなかった、そして、戦争は長期化する傾向になり、泥沼化していった、というのが一つの背景になります。
さらに、当時の中国のリーダーである蒋介石、国民政府は南京に首都あったんですが、南京も皆さんがご存知の通りですね。
占領されまして、やむを得ず、さらに奥地奥の重慶、中国の地図というと、だいたい真ん中あたりになるんですが、重慶と移動していったわけです。なので、当時、中国の首都は南京から重慶になったわけです。この中国と戦い、完全に勝利するためには、やはり首都を攻撃しないといけないということで、重慶爆撃を始めたきっかけになりました。
この重慶爆撃がどのように行われていたのかといいますと、これは中国側の研究なんですが、要するに、中国で各地の被害を統計してかなり重慶ではこの期間は多分、皆さんが思ったより長かったと思うんです。中国の見解では1938年2月から1944年の12月まで、約6年10ヶ月にわたって日本軍の陸軍と海軍の航空部隊が重慶、そしてその周辺地域を戦略爆撃を行っていたということがありました。
その攻撃の目標としてはもちろん軍事施設もあったんですが、それ以外に一般市民が住んでいる地域だったり、商店街、そして民間施設も攻撃の目標になっていたということが、中国の資料から読み取ることができます。
この爆撃の結果といいますか、効果といいますか。これは正確な数字ももちろん難しいんですけれども、中国の研究によっては、死者は2万人余り、そして負傷者はおよそ3万人を超えるそういった規模になっています。
もちろん6年10ヶ月というのは、毎日行っているわけではなくて行ったり、ちょっと中止中断にしたり、そういう感じで全部合わせてですね。6年11ヶ月にわたって、爆撃を行っていた、ということになります。
次に、重慶爆撃に至るまでの過程なんですけれども、実は重慶へのこういった爆撃を行う前に、日本は中国の各地で既に爆撃という戦術を行っていたわけです。
例えば1931年10月で金州というところに爆撃を行っておりまして1年後の1932年の2月に杭州で爆撃もありました。さらに知っている方はいるかと思うんですが1937年の8月から12月までは渡洋(とよう)爆撃という、海を渡って行った爆撃、要するに、当時の台湾だったり、あるいは九州から、飛行機を飛ばして中国の本土の上海、南京、杭州とかそういった地域に爆撃を行っていたということがあります。なので、重慶爆撃を行う前にはいろんなところで実は爆撃は行っておりました。
ただ、この重慶爆撃までは1931年から1937年までのいろんなところで爆撃を行っていたんですが、これはあくまで地上部隊の進行と連動したもの。要するに、地上部隊も実はその地域に行っているわけで、その援護する意味で爆撃を行っていたという性格があります。
さらに先ほども申し上げたように1938年の秋は、武漢、広東あたりは、占領されてさらに12月に南京も攻略されていきました。
その後、皆さんが知るように南京事件という大きな出来事もありました。そういったことがありましたので、蒋介石の当時の国民政府は中国の奥の四川省、当時、重慶はまだ四川省に属していたんですが、今は完全に住居独立した地域になっています
1938年の秋には、日本軍にとっては結構いろんな地域で戦闘を行っていたので、なかなか重慶という中国の奥地まで攻めていく。そういった余力はなかなか残っていない。難しい状態で、じゃあ爆撃をするに航空兵力だけを使って爆弾を落とす、そういうことを考え始めたわけですね。空爆だけで蒋介石政府を克服させる。
そういうことで重慶爆撃が始まったわけです。この重慶爆撃は6年10ヶ月にわたって行っていたんですが、実は3つの段階に分けることができます。
これも中国側の研究によります。
1938年の2月から1939年の1月までは実験爆撃。要するに中継の偵察する意味で地形だったり、どこに何があるかということを見るために実験的に小規模的な爆撃を行っていた時期はその時期になります。
その後、大規模な爆撃1939年5月から1941年の8月、これは大規模な爆撃になっていた時期であります。
例えば1940年の5月には101号作戦、その1年後には102号作戦というのが日本が打ち出して後で紹介しますが、ものすごい規模の爆撃を行っていました。
その後、太平洋戦争は1941年12月に始まるんですが、それに備えて兵力とか日本にとっては戦略の中心はそっちになっちゃうわけで、重慶の爆撃はちょっと回数とか攻撃の頻度を減らしていた時期は、1941年9月から1944年12月までなんですが、完全にやめたわけではなくて、ただ攻撃の回数を減らして、こういう感じで連載爆撃という段階になっています。
重慶爆撃を研究していたのは修士課程の時でだいぶ前で、最近またいろいろ調べ始めて、当時日本の新聞ではどういうふうに重慶爆撃を報道していたのかということを今ちょっと仕上げているところなんですが、いくつか皆さんにご紹介したいと思います。
これは鹿児島朝日新聞なんですが1939年の5月ですね。5月5日の新聞なんですけれども、まさに先ほどご紹介したように、大規模の爆撃が始まった時期になります。
どういうふうに報道されたかといいますと、ここに見づらいんですが、タイトルだけ見ていただければと思います。
「銃器を徹底的爆撃30機と大空中戦、敵の銃器を追撃」というふうに重慶の爆撃を報道しているわけです。要するに大都市である重慶でこういう結果をおさめたという意味でのる記事になっております。
次ですね。
同じ5月9日なんですけれども大きなタイトルで、
敵都と言いますね。敵の首都ですね。重慶市の町と書いてありますね。廃墟の中に、そして市民の状況も少しご紹介しているんですけれども、
食料が非常に足りない状況で略奪を起こすとか、そういうこともタイトルで書いております。
これは次の年なんですが1940年、これも大規模な爆撃が行われた時期なんですけれども、ここですね。
「10件連続大風襲 周辺の軍事施設が粉砕」と書いてあります。
同じく日本のこういった成果を挙げたということが書かれています。
ここで軍事施設を強調して書いてあるわけですね。実際はどうだったのか、というのが後で出てきます。また、同じ年の5月なんですが、ここも記事が出ております。
重慶の重要機関と書いてあって、大損害と書いてあるんですね。「重慶の重要機関を攻撃した」というような報道ですね。
ここに小さいんですけれども、「市民は極度の不安」と書いてあります。かなりこの重慶の市民に恐怖を与えたということを強調して書いてあるわけです。これはまた1年後なんですが、これも「蓮日連夜にわたって重慶市の住家は空気敵と巻き敵様相を露呈」と書いてますね。
もう重慶は終わるというふうな報道ですね。
これも同じ年なんですが、7月になります。
「盛り上がる重慶の街蒋介石、陣営末期の姿」と書いてあります。
ちょっとまとめてみますと、当時の日本新聞ではですね。
主に第一点目としては、軍の視点で報道されているかというと、要するに、どういう戦術でどういうふうに爆撃をしていったのか、そういった視点が主なものになっています。
その二点目としては、やっぱり爆撃を法定的に捉えている一つの成果として国民に報道するという特徴が見て取れると思います。
一方で、中国の視点から見ると、重慶爆撃はどうだったのか、実際に何が起きたのかということを少しご紹介したいと思います。
まず重慶爆撃といいますと、中国ではこの3つの大きな大空襲の日をいいます。
まず1939年の5月の3日と4日、1941年の6月5日です。
5354大空襲と言われているんですけれども、まず5月の3日ですね。午前9時なんですけれども、日本の爆撃機はですね。漢口飛行場、武漢の飛行場なんですけれども、そこから飛び立ってですね。重慶に対して奇襲を行っていました。この空襲で初めて日本軍は中国で焼夷弾を使いました。
初めての焼夷弾使用になります。この日の空襲で重慶は死者は673人で重傷者は350人という調査結果が出ています。その次の日も連日ですね。
爆撃が行われていたんですが、これは夕方頃になるんですけれども、標的となったのは重慶の市街地繁華街あたりが爆撃があったわけです。
その日1日ですね。
死傷者5000人を超えたそういった大規模な爆撃がありました。
さらに2年後なんですけれども、大トンネル事件というのがありますが、1941年の6月です。これは夜です。夕方18時ごろよりですね。夜の23時まで、約5時間、結構長い時間にわたって重慶に空襲を行っていた。
これは重慶の当時いろんな防空壕でトンネルって書いてあるんですが、いろんな防空壕が作られていて、そこに大空襲かつ時間がものすごく長かったわけで、一気にたくさんの人が防空壕に入ったわけですね。それで窒息死が起きていて、一つのトンネルの中で1,115人の死者が出たという大きな事件がありました。
これは、1941年の6月5日は今の重慶爆撃の記念日と中国ではなっております。
さらにこの日になるとですね。重慶全土で防空サイレンがなります。
記念する意味でみんなで黙祷という時間を今でも設けております。
これは当時の爆撃の後の重慶の市街地の写真なんですけれども、ご覧のとおり、ほぼ建物は破壊されております。重慶は当時木製の家といいますか、あるんですが、一方でコンクリート製の家もたくさんあったわけなので、火事によって東京大空襲とちょっと違った点としては、やっぱり火事で亡くなったり、そういうことは東京よりは少ないんじゃないかな、というふうに思っております。
これは同じ爆撃が起こった後の写真になりますが、救援活動ですね。これは軍の人たちが救援を行っている。そういう写真があります。
相当悲惨といいますか、写真を見ることで悲惨さを感じられるんじゃないかなと思っております。
重慶爆撃戦術的転換の原因と書いてあるんですが、要するに何で重慶爆撃は狙って行わないといけなかったのか、大規模じゃないといけなかったのかということを考えておりまして、いくつかの原因が理由にあるんじゃないかなと思っております。
まずは1点目として、むしろこれは多分一番大事な原因になるんですけれども、要するに非戦闘員への心理的効果と書いてあるんですが、要するに、一般市民に爆撃を通して恐怖を与えた方が早く屈服させられるんじゃないかと。
敵が怯えて早く降伏するんじゃないかということに期待していたわけですね。当時の日本軍の資料をみるとそういう意図が見て取れます。
2点目としては航空周辺論と書いてあるんですが、要するに、当時の軍の内部でも航空隊はそれぞれ陸軍と海軍に属しているんですが、空軍を設立したいという独立したいですね。
空軍を設立したいという論じる方もいました。
なので、この重慶爆撃でやはり爆撃機の力といいますか、航空機はすごく戦艦より大事だよ、ということを証明し、力を発揮するために大規模な爆撃になっていたんじゃないかなと、その一つの原因にあるというふうに考えております。
その次に、陸海軍の合作と書いてあるんですが、皆さんがご存知の通り、陸軍と海軍って仲が悪いわけですね。
なかなか一緒に仲良く作戦をやるとか、そういうことは難しい。
陸軍と海軍なんですがこの重慶爆撃に対して、もう航空戦力だけで落とさないといけないので、陸軍と海軍は力合わせでも一緒に攻撃に行こうという状況の中でうまく連携を取りながら一緒に重慶爆撃のための練習、そういう演習をしていたわけで、そこでうまく合作してすることができたので、そうすることで攻撃の回数だったり、出せる飛行機の数だったり増えることで大規模な爆撃になっていたんじゃないかな、というふうに思っております。
最後に対米戦を意識した予行演習と書いてあるんですが、要するに重慶、中国との戦争を早く終わらせるだけじゃなくて、次のおそらくイギリスあるいはアメリカと対戦するだろうということを予想した上で、この重慶でまず演習としていろんな戦術を試したり、こういうことも当時の資料を見て少し見て取れるので、この重慶を練習の場としていろんな戦術を試した上で大規模な爆撃になっていたんじゃないかな、というふうに思っております。
次ですね。最後に鹿児島にあった部隊ですけれども、実は彼らの航空隊もこの重慶爆撃に参加していたということが、昔の資料を見て取ります。
これは戦闘詳報という資料なんですけれども、戦闘が行われた後に上層部に報告するために作られた資料なんです。これは重慶攻撃戦闘詳報ですね。鹿屋海軍航空隊と書いています。この資料を見てみると、いろんな情報が書いてあるんですけれども、皆さんに見ていただきたいのはこの計画のところなんです。
どういうふうに任務とか並びに編成と書いてあるんですが、ここに攻撃の目標があるので、主な目標は中継A区と書いてあるんですが、さらにこの部隊に関してはですね。副目標これは地名なんですが、市街地って書いてあるんですね、このA区っていうのは当時の住居A区、B区、C区とかですね。区域に分けられたということがあります。
なので、このA区の中でもちろん軍事施設もあればそうでない民間の施設もあるわけです。そしてその次の副目標というのはもう完全にC市って書いてあるので、これはもう無差別爆撃になる。完全にですね、民間人など関係なくですね、攻撃するということがこれを見取れるというふうに思います。
鹿屋にあった部隊もそういう無差別爆撃を行っていたということが見て取れるんじゃないかなと。これは当時漢口の飛行場から重慶にこういう感じで攻撃に行ったと、ここは重慶なんですけれども、こういう感じで攻撃を行っていたということです。
もちろん、私より皆さんの中に、知識豊富な方がたくさんいらっしゃると思いますので、私が何か皆さんに教えるというよりかは話題提供といいますか。
一つの私なりの考えを共有して、皆さんからいろんな意見だったり、皆さんから教えていただきたいというのが私の中にあります。
今日の話でまとめてみますと、
まず戦争を多角的に見ることの重要性は、見ることは非常に大事じゃないかなと思いますね。先ほどご紹介した日本の新聞報道ですね。新聞はこういうふうに書いてあるんですが、実は視点を変えてみると、中国の方では実は大惨事だったと。でも、日本では成果として挙げられているんですけれども、中国にとってはどうだったのかいろんな写真とか見てみると、
実はこれは当時の情勢を考えると難しいんですけど、今80年たった今ですね。皆さん振り返ってみると、本当にこれは喜ぶことができるのかというふうに思うんですね。
なので、戦争というのがもちろんどっちが正しいかというよりかは、どの視点どの立場で見るか、この戦争というのはいろんな姿が見られるわけですね。
なので、80年がたった今、戦争を振り返るということは、私にとってはやっぱりいろんな視点から、例えば一般市民だったり当時の女性から見た戦争はどうだったのか、子どもから見た戦争はどうだったのかということは、やはり非常に大事じゃないかなと思うんですね。
例えば当時の新聞報道ではもちろん、重慶の一般市民はどうだったのかというのがなかなか報道されていないと思うんですが、やはり80年経った今ですね。住居でもいろんなところでやはり当時の戦争を語り継ぐそういう活動があるわけです。
今日皆さんが集まったように、市民による戦争を語り継ぐ活動、というのが非常に大事じゃないかなと思うんですね。公的の資料とか新聞からなかなか一般市民の視点とか何を体験したのかというのが分からないわけで、ただ歴史を振り返るときにやはりいろんな視点が必要ということが今日の私の話の中からでも皆さんが少しでも感じたら私の方は非常に意義があったんじゃないかな、というふうに思っております。
さらに第2点目として、草の根レベルでの交流が非常に大事だというふうに考えておりまして、これはどういうことかと言いますと私、例えば今日ここで皆さんにこういう話をするということは、一方的に皆さんに教えるわけじゃなくて、やはりちゃんと事実はどうだったのか、会話を通して当時の状況、皆さんの考え方ですね。
共有すること、本当に事実に基づいてこういった交流だったりということを続けていかないとなかなか両国の関係改善とかお互いのそういった誤解を解くことは難しいんじゃないかなと思っています。
特に中国と日本の間では国の間ではいろんな問題があるわけですから、民間の交流も一時的に難しくなる。そういう状況もある中でやはり交流を重ねていく。交流を続けていくことは将来的には両国の関係改善につながっていくんじゃないかなと思います。
以上で私のお話を終わらせたいと思います、ご清聴、ありがとうございました。
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