2月22日(土)の「第六垂水丸遭難事故を語り継ぐ」会で、お話をしてくださった田尻正彦さんのお話を紹介いたします。
50年前に書かれた前回のお手紙と、当日お話してくださったことは、変わらず田尻さんの記憶に留められておられました。
戦争という時代を体験した田尻さんの“いのち”の中で、忘れられることのできない記憶の悲しみに触れた
一日でした。 山下 春美
田尻正彦さん 大正13年3月30日生まれ 鹿児島市育ち
私は100歳を超えた。
垂水丸の事故の時は19歳だった。勤めていた海軍鹿屋工廠が日曜日で休みだったので、鹿児島に早く亡くなった母親の墓参りに行くため、北田からバスに乗った。当時は木炭車で、垂水への行きはいいが、帰りは古江の急坂では私たち乗客はバスを押していたものだ。その日、北田から乗ったバスは満員で、私は座れずに、運転手の横に立っていた。出発して、運転手が弁当を取ろうとしてハンドルを取られ、バスが側溝に落ちかけた。
私があっ!と声を上げたら、運転手が気付き、バスは落ちずに済んだ。バスに乗った人たちは皆垂水丸に乗る人たちで、全員亡くなっただろうが、私が声を上げなければ、バスは側溝に落ちてしまい、あのバスの乗客は船に間に合わずに死なないで済んだのにと思うと、時折涙が出る。
船着き場は四十五連隊が明日鹿児島を出征するので最後の面会に行く人でいっぱいだった。若い母親は夫に会うために子供を背負い、一張羅を着ておめかしして、親たちも重箱にいっぱい御馳走を下げていた。とても寒い日でトタン張りの切符売り場の陰にみんなが風をよけていた。乗船は老人や女子供を先に乗せたので、その人たちは船内に入った。私は一番最後に乗ったので、船底の船室に入ろうとしても満員で入れずに、船の最後部の甲板の左舷の一番端に乗った。甲板も満員だった。定員オーバーしても誰も乗船を止めることはなかった。700人くらい乗ったということだ。転覆は想定もしていなかっただろう。出港時は船はまっすぐ浮いていた。
垂水は砂浜だったので200m位海の方へ突き出した桟橋だった。船は船首を垂水に向けて桟橋に停泊しており、出港は、いつも鹿児島に向けてまずバックをして、それから前進をするために方向転換をする。
その日は方向転換をしたら、私が乗ってる左舷を下にして右舷を上に傾いてきて、私の側の乗客は足が海水に洗われ始めたものだから、足を上持ちあげていた。
さらにどんどん傾いてきて乗客の膝まで海水につかり、しまいには反対側の右舷が高く持ち上がってしまい、上になった右舷の甲板からたくさんの人たちが滑り落ちてきたので、甲板には手すりもなくて、その人達に押しとばされて私が真っ先に海に投げ込まれてしまった。必死で泳ぎ、後ろを向いたら、船の転覆したあたりは10人くらいずつあちこちで溺れる者同士で捕まり合い、取りすがり合いをしていた。その人々のかたまりが10か所くらいは見えた。垂水丸はゆっくり進みながら傾いていって、とうとう転覆した。桟橋から100mくらい先に浮いていて、船腹の上に載って助けを待つ人もいた。
手漕ぎの船が20隻くらい助けに来たが、「若い者は泳げ」と私を救い上げてはくれなかった。泳ぎは得意だったが、マントが脱ぐことができず体にまとわりついて泳げるものではなかったけれども、必死だった。今でははっきり分からないが、30mくらいだったろうか、なんとか泳ぎ、桟橋まで泳ぎ着いた。兄に借りた皮靴は片方が脱げていた。私はやっと桟橋に上がり、そのむごい有様を暫く見ていた。そして桟橋を歩いて海岸に上がった。私が夕方帰る前までは垂水丸は浮いていた。海岸には死者を並べてむしろをかけてあった。青年団や婦人会の人たちが大勢来て色々助けてくれた。町の人たちは遠巻きにして、近寄る人はいなかった。
町のサイレンが鳴りっぱなしで騒然としており、海岸では海軍の兵隊たちがあちこちで人工呼吸をしていた。海岸は4か所くらいで大量の藁を焚いてあった。婦人会や在郷軍人たちが私たち生存者を火のそばに連れて行って暖めてさせてくれた。濡れた服で、靴もなく裸足でいたら、船長の奥さんが家で風呂を沸かしてくれて、握り飯を食べさせてくれた。そして服も乾かしてくれた。転覆した垂水丸6号船は天皇陛下が来た時、焼玉エンジンを改造して替えてあり、一番いい船だった。
私は夕方バスで鹿屋に帰った。近所の産婆さんが3人亡くなっていたらしく、その頃は鹿児島から鹿屋に移り住んでいた父は自宅で心配してガタガタ震えて待っていたらしい。
講演会後、田尻さんに私は質問しました。
「終戦の時、天皇陛下のラジオ放送を聞いて、みんなどんな様子だったんですか?」と。
すると、田尻さんは、「みんな、喜んだ。」 と。
日中戦争から始まり、15年間も続けてきた戦争は、負けてしまっても、終わった事への安堵感が勝る。ウクライナもロシアの人々も、心の奥底から、戦争を終わらせてほしいと願っているはずです。
そのことを田尻さんから学び、生かしていかなければ、先人の体験を聞いても意味なきこと、として終わっていくのです。 山下春美
コメント
前回の垂水丸遭難事故でも同じようなコメントしましたが、
「終戦の詔勅は整列して聞いた。ラジオの音声は明瞭で敗戦は分かった。みんな死ぬつもりでいたから、泣く者はいなくて、むしろ喜んだ。」
とおっしゃっているように、ホッとしたり安心した人が多かったと思います。
負けたのは残念だったけど、終わったという思いが勝ったと思います。
文面の”工廠”という言葉が今は知らない方々が多いと思います。
戦時記録にはよく出てくる用語です。
戦争を止めてほしい、という国民の声が国のトップに届かない、ということほど悲痛なことはないですね。