2025年2月22日(土)垂水市立図書館で「第六垂水丸遭難事故を語り継ぐ」という催しが開催されました。
(この出来事については、当ブログでも2月6日に「遭難した日」として紹介しておりますので、事故の詳細についてはそちらをご覧ください。)
今年は、なんと「私は垂水丸に乗っていて事故に遭った。」という101歳の男性が、この催しの数日前に鹿屋市から垂水市立図書館に展示されてある第6垂水丸遭難事故に関する資料展を見に来られたそうで、そのことを知った主催団体の垂水史談会の会員が男性の住む鹿屋市まで事前にお話を伺いに行き、当日はその男性が遭難事故の体験を話してくださいました。
男性のお名前は、田尻正彦さん 101歳 大正13年3月30日生れ 鹿屋市在住の方です。
まずは、田尻さんが戦後50年目に書かれた手紙を事前に頂いておりましたので、その手紙を紹介します。
田尻正彦さん 「第六垂水丸遭難事故の記憶」(当時70歳)
戦後50年、戦時下のいろいろな体験が語り継がれている中、私も忘れることの出来ない思い出として、昭和19年2月6日の垂水の転覆事故がございます。
その日は、日曜日でもあり、鹿児島市伊敷にある歩兵第45連隊の戦地への出征を間近に控え、最後の面会日という事で、垂水港は5.6百人の乗客で大変な混雑をいたしておりました。
北風の冷たい風が吹き降ろす港は、身を切る様な寒い朝でございました。
男の人はほとんどがマントかオーバーを着こみ、女の人は日常のモンペを一張羅の着物に白タビ、下駄履きをいう出で立ちで、子供をヒザ下に引き寄せ、ショールで包み込んで、寒さをしのんでおりました。何れも最愛なる吾が子、吾が夫との最後の面接という事で女の人も子供を背負い、子供の手をひき、寒い中にたたずみ、乗船をまっておりました。
となりの老夫婦は、息子との面会か、男の人は着物の上にマントを着こみ、モンペ姿の奥さんをマントで覆うようにしておりました。赤ちゃんを背にしたお母さんは、コンゴバオリの上から、ショールを赤ちゃんの頭から前の方にたらしております。
片手には、赤飯に煮しめか、面会にいただく弁当の風呂敷包をそれぞれに手にしております。丸田の支柱、丸太の樽に板を並べた長い桟橋の突端には、第六垂水丸が船首を陸に向け、碇泊しております。
やがて、改札が行われ、先ず年寄りから、女、子供、と順に桟橋を一列、二列で進んでいき、私共若い者は、最後尾、今にして思えば死への行進でございました。
私が船に達した時は、寒さのためか船底も客室も足の踏み場もないぐらいつめられ、中に入れない人がデッキにあふれておりました。
仕方なく甲板に、甲板も肩をすり合う程の人で5.6百人の乗客が全部乗船致しました。
船はバランスを失うこともなく、真っすぐに浮いております。北風の吹く海はさほど荒れておりません。やがて出港、エンジンが始動、船は静かに桟橋をバックして行きます。そして、前進、鹿児島に船首を向けて、右旋回が始まります。旋回のためか、左に傾いて参りました。更にかたむいて参ります。
甲板よりデッキをのぞくと、デッキを海水が流れております。デッキの人が、交互に足を持ち上げております。船はますますかたむいて参ります。次にデッキをのぞくと、今はヒザまで海水に没しております。そのとたん、右側の乗客が左側の私の方にすべり落ちて参りました。と、同時に私も、もろ共、海中に投げ出されてしまいました。
後ろを振りむくと船はすでに横倒しになっておりました。投げ出された200人余りの乗客は、5.6人が一群となり、あちらこちらで悲鳴と共に取っ組み合いが始まっております。正にこの世の生き地獄、船は完全に赤い船底を上にはるか沖合に転覆しております。
船室の乗客は一人として脱出できませんでした。
陸では、サイレンが吹きならされ、長い海岸の砂浜から櫓こぎ船が、私共めがけて進んで参ります。
私も始めは自信を持って桟橋に向かっておりましたが、そのうちレインコートが体にまつわり、手足が自由になりません。次から次へと助け船が私の横をすりぬけて、私より女、子供のいる沖の方に去って行きます。今は、後ろを振り向く余裕もありません。自分の事で一生懸命です。
「若い者は泳げ!」と、船頭がかん高い声を残して、沖合のほうに次から次へと去って行きます。
最後になり、やっとの思いで引き上げてもらいましたが、すでに限界に達しておりました。
海水をふくんだ着物の重さがズシリと体にこたえて参りました。
陸に上がると、長い砂浜はたいへんな様相を呈しております。すでに水兵さんの姿も見られます。消防団、在郷軍人、婦人会と全町あげての人工呼吸が方々で行われております。すでにムシロがかけられた悲しい姿も方々に見受けられます。
ワラタバがなげ込まれ、炎が数メートルにも上がるたき火も数か所で行われております。
国防婦人会のタスキを掛けた叔母さん達が私共の服をかわかしてくれます。ニギリメシ、炊き出しもしてくれます。転覆した船はその先に放置されております。
中にとじ込まれた先程の老夫婦、子供連れのお母さん、今ははなればなれになり、もみくちゃに、今ごろどうなっているのだろうか。又、妻や子供、父母の面会を楽しみに待っていた兵隊さん達の驚きと悲しみ、心痛な思いで出征していったことを思うと、なんともやり切れないつらい気持ちが今も我が事の様によみがえって参ります。
鹿屋の町はすでに情報が伝わり、肉親をさがしているのだろうか、バスの中を見上げる人の姿がいまも思い出されて参ります。家に帰ると、私と二人暮らしの70の父の喜び、今になって父の気持ちが私の心に伝わって参ります。
あれから54年、今は噂をする人も少なくなって参りました。
昔の事で何人乗客で、何人死亡したのかもわからない状態でした。
私が19の時の事でございました。54年昔のことが、今でも手に取るように記憶に残っております。
人間の記憶というものは、ある程度あいまいなものでございますが、この事については絶えず、復習してきたせいか、今でもはっきりした記憶でございますに基づいております。
コメント
80年前の貴重な水難事故の記憶を正確に覚えていらっしゃる事にも感服します。
まるでタイタニック号の水難事故の映画を観てるような迫力でした。
そうなんです。私もタイタニックを想起させられました。しかし、この事故の根本原因は戦争にあることを忘れてはならないと思います。