「鎮台上り(ちんだいのぼぃ)」

2024年

これは、10月12日「戦争を語り継ぐ集い」でお話をしてくださった山下幹雄さん(93歳)の話の中から、
「かごしま未来の平和館プロジェクト」代表の野田洋一郎さんが、「鎮台上り」について後日、聞き取りをされ、まとめられた資料です。

出征兵士を送る日取り

                             証言者:山下幹雄氏  記録:野田洋一郎

この証言は山下幹雄さんがお母さまより聞き取ったものや、自分が見聞したものを収録。
出征兵士を送る宴は「鎮台上り」と言われた。戦況が厳しくなると家族だけでの見送りに
した場合もあるのではと推測された。


【前日】
男性は酒盛り、女性は料理を担当した。
鹿児島県大隅半島佐多では「てこしゃん」と呼ばれる太鼓や三味線を奏して
踊ったりした。
この時は地元の民謡や漁の時の歌などを出征兵士の家長が主宰して催した。
この宴のために、送り出す家族は大変な出費をした。足りない時はお金を
持っている人から借金をした。
日給1円(焼酎1本1円の時代)。宴で150円くらいの費用が必要となった。
餞別もあるが、不足した。
 

【当日】
神主の神事
出征兵士のあいさつ
皆で軍歌をうたう
駅に向け行列を作りお見送り
万歳で送り出した。(万歳はその土地の名士が発声した)

出征兵士を送る歌(一番のみ掲載)

わが大君(おおきみ)に召されたる
生命光栄(はえ)ある朝ぼらけ
讃えて送る一億の
歓呼は高く天を衝く
いざ征(ゆ)けつわもの日本男児



<質問>
1、太鼓や三味線で踊ったというのは民謡、軍歌? 
軍歌は歌われないで、民謡など地元由来の歌などで宴は進んだ。子供は参加できなかった。

2、「鎮台のぼり」と言われたようだが、昭和19年には鎮台から師団という呼び名に
師団の名になっても、日清・日露戦争以来ずっとこういった呼び方だった。

3、当日、親類縁者が兵士を送る式典に出席したと思うが、仕事のない人だけが出席したのか?
佐多では農家が多く、会社勤めは少なかった。しかし、隣組制度で隣組の人は全員出席していた。近くの学校の生徒、在郷軍人、警察官、国防婦人会の人々も参加した。

4、見送り行列はみなでなはく、行ける人のみ駅まででむいたのか?
車や汽車など乗り物のある所まで見送った。山深いところでは峠の上まで徒歩でという
こともあった。

5、千人針、国旗の書付は前日わたされたのか。
前日に国防婦人会の方が千人針や国旗の書付を渡した。

6、この兵士の送り出しの工程はどこでも大体同じだったのか?
他の地方のことはよくわからない。ここでの話は母からの情報が多かった。

7、徴兵された人は職業軍人となるのか、給料はもらえたのか?いくらか?
職業軍人ではないが、軍人恩給が支給された。招集時は「二等兵」の位になる。
戦況悪化とともに徴兵検査も甲種・乙種合格者でなくとも丙や丁でも程度次第
で招集された。

記録記載日 2024/10/19

コメント

  1. せしたみつる より:

    私は割烹着に「大日本婦人会」と書かれたタスキをかけて日の丸を持った祖母の写真を覚えています。
    おそらく隣組の行事で、出征兵士を送る集まり、いわゆる「鎮台のぼい」に参加した時の写真だったのでしょう。大勢の婦人たちが同様の姿ど写っていました。
    その時、見送った男性は帰って来たのだろうか、と思いにふけました。
    「鎮台のぼい」が、このように金がかかって行われていたなどの知識は、さっばりありませんでした。
    よく記憶していらっしゃったと頭が下がります。

  2. 春光 より:

    コメント、有難うございます。そのお祖母さんの写真はお持ちではないのですか?銃後の守りとして、多くの女性たちも時代に巻き込まれながら、大日本婦人会の一員として役目を課せられたのですね。