「通州事件」 最終回

2024年

保守系論客から観た「通州事件」  瀬下 三留

今度は保守系論客の見た「通州事件」について述べてみます。

藤岡信勝氏が中心になって書いた「新聞が伝えた通州事件1937ー1945」「通州事件 日本人はなぜ虐殺されたのか」「天皇さまが泣いてござった」などをもとに紐解きました。

当時、通州に親日的な冀東(きとう)防共自治政府を殷汝耕(インジョコウ)がつくりました。
 阿羅健一氏の「通州事件と南京事件」には、以下のように書かれてあります。

『これを嫌がった南京政府は、殷汝耕批判のデマを朝鮮人たちに吹込みましたが、批判の悪口は日本人相手まで拡大して、対日感情の悪化に拍車をかけ当時の中国人の大多数が「日本打つべし」「日本人殺すべし」の強い反日意識を持つ事になったのです。

殷汝耕は一万人の保安隊を軍隊として冀東自治政府に置きました。
保安隊の構成は、満洲の匪賊を集めた質の悪い隊員たちでした。
対して中国は宗哲元率いる第二十九軍を通州近くの宝通寺に展開させていました。

7月29日保安隊は宗哲元の命令により、先ず殷汝耕を拉致しその後守備のため通州に残っていた日本兵を烈しく攻撃し、最終的には全滅させました。
それと同時に通州の日本人の大虐殺を始めたのです。

終戦後の東京裁判で、当時天津歩兵隊長だった萱島高氏は「旭軒(飲食店)では四十才から十七才十八才までぐらいの女性が皆強姦されていました。それは裸体で陰部を露出したまま射殺されておりました‥‥(まだまだ続きますが悲惨なため割愛します)」

また第二歩兵隊長代理の桂鎮雄氏は「近水楼(飲食店)の入り口で女性らしい人の屍体を見ました。
その屍体の格好から見ると相当抵抗したらしく、着物は押し倒されたままで剥がされたらしく、剥き出しになった裸身を五ヶ所も六ヶ所も銃剣で突き刺してありました‥‥(まだまだ続きますが悲惨なため割愛します)
帳場や配膳室は、もう足の踏み場もないように散乱していて、略奪のすざましさを物語っておりました‥‥(中略)
南城門近くの日本人商店では、主人らしい人の屍体が路上に放置してありました‥‥』

藤岡信勝氏の研究によると、

通州事件の残虐性は民族性による独特の残虐性であり、日本人には持ち得ない感情であるが、対比してよく「南京事件」の事が問題になり、日本兵が30万人を殺戮したというようにいわれているが、この事は妄説である。
日本軍人には明治天皇の御製に象徴されるように、「敵対するものに対しては徹底的に戦っても、戦が終わったあとは戦争の被害に泣いているものに対してはこれを大切に救い上げなさい。」の精神が充分了解されています。

 私が本ブログの「昭和の日」に昭和天皇の戦後行幸の出来事を書いた時に、参考にした昭和20年代の因通寺住職の調寛雅(しらべ かんが)氏の「天皇さまが泣いてござった」に佐々木テンという女性の通州事件の証言が収録されています。

 調の法話を何度も聴きに来ていた佐々木テンは、ある時意を決したように調に通州事件の体験談を語ったという。

 子供の頃から貧困で女性としては人に話せないような仕事に従事していた頃、中国人の男性と知り合い、彼から求婚されふたりで中国天津に渡り、その後商売を営むため、通州城内に転居しました。

以下、佐々木テンの証言を調氏が聞き取ったと思われる手記より中略し、転載。

日本人相手に商売は上手くいいくようになっていました。
通州には冀東防共自治政府があり、日本に対しては非常に親日的だったので、私も日本人であるということに誇りを持っていたのです。

ところが昭和11年終わり頃から、沈(旦那)さんが、「これからは日本人という事を知られないように」と申すので、「何故」と聞くと支那と日本は戦争をする、その時私が日本人だとわかると大変な事になると言うのです。

私が日本人だと知らない朝鮮人は、日本は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしている、次は支那を領土にして支那人を奴隷にするから、通州から日本軍、日本人を追い出さなくてはならないと言うようになってました。

そんなことを知らない日本人や日本兵隊さんに「注意してください。」と言いたいけれど、支那人のフリをしている私は、その言葉を言う事ができませんでした。

支那人として日本人と話しているうちに感じたのは、日本人が支那人に対して優越感を持っている事です。どうせ支那人には日本語はわからないだろうと、「チャンコロ」や「コンゲドウ」などの言葉を使ったりしていましたが、多くの支那人は肌で侮蔑的態度を感じていました。

5月も終わりになると、通州での日本に対する反感は極点に達していました。
7月になると、特殊な服を着た学生たちが「日本人皆殺し」「日本人は人間じゃない」など大声で喚きながら行進するようになっていました。

ついに7月29日未明に猛烈な銃撃戦の音が聞こえてきました。私は沈さんと逃げながら「きっと日本軍は勝つ。負けてたまるか」と思っていました。

夜8時を過ぎると、日本居留区では血生臭い匂いがしてきました。
学生たちは保安隊と一緒になって暴虐の限りを尽くしていました。
15才か16才くらいの娘さんを引き出して娘さんを平手で5、6回殴りつけ、服を破り道の側に押し倒して、下着を剥ぎ取り、「助けて!」と叫ぶ娘さんに乗しかかろうとした時、一人の男性が娘さんの上に覆い被さるように身を投げました。おそらくお父さんだったでしょう。
すると保安隊兵隊が、男の人の頭を銃の台尻で殴りつけて、グシャッと頭が割れましたがさらに兵隊は続けて殴りつけ、辺り一面に何かが飛び散りました。‥‥(あまりに悲惨なので以下中略)

娘さんは既に全裸にされて、下肢を大きく拡げ、彼女を陵辱し始めようとするのです。たくさんの人達が見ている前で人間最低の事をしようというのだから、これはもう人間のする事ではありません。
(‥‥あらゆる残虐な場面の描写が続くが、あまりにもおぞましいため、割愛します)

日本人居留区では裸にされた日本人が一ヶ所に集められていました。
50数名の日本人は機関銃で処刑されて、その中から呻き声がかすかに聞こえたけれど、ほとんど死んでしまったのでした。

旭軒と近水楼の間にある松山楼(飲食店)の近くまで来た時、一人のお婆さんが青龍刀を振りかざした学生に追いかけられて、懸命ににげようとしましたが左の腕を切り落とされ、お婆さんは仰向けに倒れました。さらに学生はそのお婆さんの腹と胸を突き刺して立ち去りました。
その場が、沈さんと私とお婆さんだけだったので、お婆さんの額にそっと手を当てました。
するとお婆さんは断末魔に喘ぎながら「悔しい、仇をとって」言うのです。
そして最後の息を引き取る間際「なんまんだぶつ」とお念仏を称えたのでした。

私はそのような事件の現場を目の当たりにしても、沈さんは慰めてくれたけど、この人も支那人だなあと思うと、支那人が嫌いになりました。

こんな事からとうとう沈さんと別れる事となり、昭和15年に、日本に帰ってきました。

 通州事件と南京事件に詳しい阿羅健一氏によると、

事件同時、北京参事官の森島守人は「陰謀・暗殺・軍刀 一外交官の回想」に「日本軍が保安隊を爆撃したから保安隊が通州を攻めたのであり、事件が起きたのは、爆撃が原因で、日本が悪かった」とまとめているが、事実は確かに日本軍が保安隊を爆撃したことはありましたが
事件の二日前に日本の飛行機が通州まで来て、宗哲元の部隊を攻撃しようとしたのですが、間違って保安隊の兵舎を爆撃してしまい、通州にあった日本特務機関員が謝罪して、保安隊も納得していてこれが引き金なのか、そうではなかったのではないか、森島守人は事件が起きたのは、爆撃が原因で日本が悪かったと書いてしまったのです。

 当時の新聞報道は、一斉にこの猟奇的な事件を書きたてて、国民の反中感情を煽り立てています。
ただ不可解なのが、なぜ冀東政府保安隊、学生隊がここまで猟奇的かつ残忍な集団殺人を犯したのか。 

 藤岡氏は国民性をあげているが、それだけでは片付けられないのではないだろうか?
一説によれば、日本側に対中国への憎しみを増大させて、日本を戦争の泥沼に入り込ませようとするソ連などの外国勢力による指示があったのではないか、とも言われています。 

 これらをみると、通州事件はもともと大事件だったはずですが、どんどん話が歪められて戦後にはほぼ無視されるようになり、歴史教育でも扱われなくなったという経緯です。
 このようにして「歴史戦」が繰り広げられているのです。

今後も忘れてはいけないが、忘れ去られそうな戦争事実を取り上げていきたいと思います。

感想 山下春美

 今回、瀬下三留さんは、あまり知られていないであろう(私も全く知りませんでした。)日中戦争が勃発した昭和17年、中国の通州という地で起こった「通州事件」について、コラムを寄せてくださいました。

 通州事件に関する数冊の本を読まれ、その内容は書き手の視点で違ってくることを教えてくれています。
また、起こった事実は一つでも、それを見た人、伝えていく人、時代、の流れの中で、その事実は変容していくことも、私たちは心得ておくべきです。

 とても悲しく、悲惨な出来事でありますが、自分自身もそのような残虐性を内在しているのだろう、と忘れずにいたいと思います。

 

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