鹿児島市にお住まいの女性Nさん(50代)が、お母さんから聞いた戦争の記憶です。
母の戦争の記憶
母(1940年生)は、昭和20(1945)鹿児島が空襲を受け続けていた時、5歳でした。
当時、母は鹿児島市長田町に住んでおり、その先の冷水町にある興国寺墓地に犠牲者を埋葬するために、遺体を乗せた大八車が家の前を何度も通り、その光景が怖くて、怖くて、家の中にいるにもかかわらず、強烈な臭いがして、今、大八車が通っているんだ、と思っていたらしいです。
また、空襲の後、近所の鳥小屋が焼けたらしく、丸焼けになった鶏をみんなで食べて、卵になる前のキンカンと言われている内臓が固かった、と話してくれました。
においの記憶
この話は、私の知人から聞いた話です。
この「強烈な臭い」、というお母さんの記憶に私は惹かれました。「臭い」というものは、言葉で語り継ぐことのできないと思えます。
お母さんに、「どんな臭いでしたか?」と質問して、それを言葉で表現してくださったとしても、私はその臭いを、自分の経験値の範囲内の中からしか選びとることができない。町が焼け、人が焼け、あらゆるものが焼けた臭いとは、一体どんな臭いなのか、まったく想像できないことがとても悲しいなぁと思いました。
ちょうど、「鹿児島ぶら歩き」さんのブログ・7月13日に「歴史の匂い」というタイトルで、素晴らしいコラムがありましたので、併せてお読みくださることをお勧めいたします。
参考資料として、鹿児島市HPの鹿児島市空襲に関する罹災状況のリンクも貼っておきます。 山下春美
コメント
当時の「におい」とか「色」とか「温度」などの生々しい記憶はその時を経験しないと知る事の出来ない貴重な記録です。
戦争当時を知らない私たちには戦争の「色」は白黒のほぼグレーの世界です。
ましてや「におい」は想像もつかないものです。
コメント、ありがとうございます。確かに、「におい」だけではなく、「色」「温度」なども、経験しないとわからない感覚ですね。戦争の「色」は、白黒のグレー・・・・。
これまで、戦争の場面を自分が想像できていたのか、考えさせられました。