鹿児島大空襲と日本各地の空襲~戦後79年目に寄せて~

2024年

昭和20年6月17日 鹿児島大空襲と日本各地の空襲    瀬下 三留

大変悲しい事ですが、第二次世界大戦末期に米軍は、日本全土に大規模な空襲を行いました。

 鹿児島県内には鹿児島市を始め、鹿屋、知覧、笠之原、国分、垂水等にもB29からの,爆撃と機銃掃射にさらされました。

鹿児島市は昭和20年3月、4月、5月、6月、7月、8月と空襲を受け続けました。

 特に、6月17日の空襲は米軍の記録では、117機のB29が,午後11時5分に鹿児島上空に進入し、125,548発、810トンの焼夷弾を落として市内を火の海にしました。それによって死者2,316名、負傷者3,500名の犠牲者が生まれました。

その犠牲者を悼んで、写真にある通り慰霊碑が、建立されています。

広馬場通り戦災鎮魂慰霊の碑ひろばばどおりせんさいちんこんいれい ひ
場所:鹿児島市堀江町
(鹿児島市山形屋いづろパーキング近く)
建立者:広馬場通り戦災鎮魂慰霊の会
建立日:平成16年6月18日

碑 文

 昭和二十年六月十七日、太平洋戦争の終戦を間近に控え、鹿児島市は大空襲により甚大な被害を受けました。
市街地中心部の堀江町広馬場通りの三ヶ所の防空壕において、戦災死した春成直助一家七人をはじめ、多くの戦争犠牲者の無念の霊魂は、浮かばれることもなく、歳を経るごとに、風化されようとしています。
 沈吟、空しうして慟哭悲嘆、寂々哀愁憐れむべし。
 我ら志あるものが、慰霊の誠を捧げ命の尊さを訴え、永遠の平和を願う尊い一灯を点じたく、ここに鎮魂の碑を建立します。

平成十六年六月十八日      広馬場通り戦災鎮魂慰霊の会
代表 春成幸男(社団法人三州倶楽部会長) 春成幸男 書

総務省HPより

他の都市に目を向けると、東京を始めほとんどの大都市が,空襲の標的になりました。

 特に3月10日未明の東京大空襲は、マリアナ諸島から飛来した324機のB29機が、墨田、江東地区に焼夷弾の絨毯爆撃を行いました。

犠牲者数は125,000人以上です。

 これらの無差別空爆作戦を成功させる為に、米軍は日本の関東大震災や明暦の大火についても調べ上げ、どこを燃やせば効果的に焼き殺せるかの研究もしました。

 その時の指揮官はカーチスEルメイ少将であり、米軍は続く8月6日、9日には広島、長崎に人類史上初の原子爆弾を落として第二次世界大戦に勝利しました。

 昭和39年、当時の佐藤首相はそのルメイ氏に航空自衛隊育成に功績があったとして、同年12月「勲一等旭日大綬章くんいっとうきょくじつだいじゅしょう」を贈りました。

 本来、勲一等旭日大綬章は、天皇陛下が渡す「親授しんじゅ」が通例ですが、この時昭和天皇は親授を拒否されました。

 このような戦争で起こった空襲などの歴史的事実や背景について、みなさんはどのように考えるでしょうか?

『太平洋戦争 民間犠牲者慰霊碑』
場所:鹿児島市役所前 みなと大通り公園
建立者:鹿児島市。南日本新聞社
建立年:昭和49年6月17日

【表】 
太平洋戦争   民間犠牲者慰霊碑

戦災により  非命にたおれた   はらからの   痛恨をおもい
あすのために  この碑を建つ

昭和四十九年六月十七日
鹿児島市市長 末吉利雄
南日本新聞社 社長 川越政則


【裏】
この碑は 鹿児島市と南日本新聞社が、戦災三十周年を記念して鹿児島県内外の同県関係篤志団体七十八 篤志家二百五十四人の協力を得て建立したものである

彫像制作者 新制作教会会員 児島幸雄
台石寄贈者 鹿児島県石材工業協同組合
理事長 米盛弘修

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