我が父の戦後抑留史を記すにあたって 瀬下 三留
父の満州での戦争、終戦後のモンゴル抑留の物語を編纂するのに、参考資料にした文献の中で岩手の小林謙一氏の「終戦を知らず北満で戦った第百七師団歩兵第百七十七連隊」という手記を要約して改めて掘り下げてみたい。(上記をクリックすると、手記サイトに移ります。)
今から30年ほど前に、小林謙一氏が「平和祈念展示館」に寄贈した手記である。
私(小林氏)は昭和二十年二月十日に青森県弘前の北部第十六部隊に入隊した。
原隊で一週間の訓練ののちに、満州へ向かうため博多港から「景福丸」で朝鮮釜山へ。
列車で満州徳伯斯において、第百七師団歩兵第百七十七連隊の菅中隊に入隊した。
そしてすぐに第九中隊に配属された。
私は衛生要員として、七月には日ノ出山陣地の中隊に移動になったが、八月九日早朝、ソ連機が低空飛行で陣地攻撃を仕掛けてきた。
その時、我が日本はソ連軍と戦闘状態に突入した事がわかった。
我が第二大隊第九中隊は、興安嶺を目標に南下した。
八月十四日戦闘に参加した。
我々中隊は麻畑の中に入り、応戦するも敵の攻撃は激しくて、我々は包囲され死傷者が続出する状態で、生存者は皆無の惨状だった。
隊員十七名が大興安嶺山中に避難して、二、三日間少々のコメと乾パンで命を繋いだ。
その後は野営、行軍を続けながら、何でも手当たり次第食べた。
その為下痢に悩まされた。
昼は動かないで、夜にチチハルを目標に一週間歩き続けた。
その間、幾度か民家に泊り、食を求めながら敵の襲撃に遭い、傷ついた戦友を助けながら行軍した。
八月二十四日頃か、ソ連兵と遭遇し、熾烈な戦闘をした。
二十九日朝、飛来した日本軍用機から終戦を告げられ、武装解除となり兵器をソ連軍に引き渡した。
これから先、食糧、衣住欠乏、疲労、労働、医療不足・不備な地に強制抑留されるとは誰も思ってもみなかった。
その後一週間、食糧のある元の駐留地徳伯斯にソ連兵に警護され戻った。
十月末、チチハルに行軍で移動。
「東京ダモイ」(東京に帰る)と言われて満州里を経て西へ移動した。思っていた東への移動はなかった。
到着した駅はチタ州のチェノスカヤ収容所第十四大隊だった。
到着したのは、炭鉱町だった。炭鉱での苦労は極寒、衣食住の困難と過労、さらにノミ、シラミ、南京虫、それに加えて凍傷等、惨憺たる苦難に耐える三年間だった。
炭鉱での仕事は、ダイナマイト二十発を仕掛け、石炭1トンを台車にて十五台、支柱三組を組む。これが一日のノルマである。
他には民主主義(共産主義)運動の教育は強制的で大変だった。
勉強を強要され、不熱心な者は反動者として人民裁判が施行された。
私も民主グループに摘発され、人民裁判を受けたことがある。
兵舎内で朝起床してみれば左右の戦友が亡くなっていた。
死亡者が五、六人になると、馬車一台に積んで墓場へ運ぶのだが、墓も何もない広野である。
死体は五、六体ぐらいの穴の部分に石炭を燃やして終日埋める、これが毎日の労働だった。
昭和二十三年七月、ダモイ列車に乗れという命令が突如きたので、また嘘だろうと思って列車に乗った。
列車は東に進行した。
今度は本当かと思いながら、乗り続けていたら、着いた所は夢にまでみたナホトカだった。
八月二十三日、「信濃丸」に乗船できた。
果たして戦友が眠る何百ヶ所の墓地が全面的に整備・整理されているのだろうか。もし整備されていないのならば、同じ生活を共にした戦友として、ソ連当局に猛反省を求める。
と、締めくくっている。
今から数えると八十年近く前の出来事になる。
昭和二十年の召集から敗戦、抑留、帰還までをつぶさに書き綴っている。
陣地移動行軍時に食糧不足だった事実や、ソ連の一方的な攻撃で逃げ惑う姿を後世の我々に教えてくれている。
戦争終了間際で日本がほぼ降伏するのを承知していて、北方からいきなり攻め込んでいたソ連に対して、一兵卒であった小林氏もこの戦争に怒りを感じているのがわかる。
さらに武装解除をした日本軍の兵士や軍属に対して、騙し討ちにして強制労働のための抑留という、あってはいけない、いわば”戦争犯罪”によって大量の人員を騙してソ連邦に送り込んだ挙句、抑留時にかの地で無念にも死亡した仲間を無惨に扱っているとしたら、猛烈にソ連政府に糾すべきだと言っている。
また終戦七十九年目の夏がやって来る。
少しでも多くの人に無実の日本人が終戦後、犯罪者のように連行抑留されたという事実を知ってほしいし、忘れてはならない。
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