最終章
深志と芳子の家族
昭和24年8月1日に、待望の最初の子どもが生まれた。
女の子だった。
「さよ子」、と名付けた。
さよ子が10ヶ月の頃、原因不明の高熱が続き、尋常な事ではないと思い、突然の発熱でグッタリしているさよ子を抱いて、川内川の橋向こうにある関小児科に急いで駆け込んだ。
診断の結果、小児まひとの事だった。
先生から、「マヒが少し残るかもしれない。」と言われ、私も芳子も自分を責めた。
まだ10ヶ月の赤ん坊だった。
第二子は、男の子だった。 昭和26年8月26日に生まれた。
奇しくも翌月8日には、日本独立のサンフランシスコ講和条約が締結されると、新聞で盛んに報道されていた。
思えばここまで来るのに、どれだけ多くの戦友や家族が死んだことやら。
一番目の男の子という事で、「真一」、と名付けた。
第三子も生まれた。
次も男の子だった。昭和29年6月29日の生まれだ。
名前は「満広」、と名付けた。若い頃満州で生活していて、戦争の渦に巻き込まれた思い出の「満州」の「満」と、幼少の頃から面倒を見ていたが、若くして亡くなったたったひとりの弟「末廣」の「広」をもらって「満広」とした。
4番目の妊娠に気づいた芳子は、それまで産婆さんに赤ちゃんを取り上げてもらっていたが、今度は鳥越産婦人科で診察してもらっていた。
産むつもりがなかったのである。
店は前より軌道に乗りつつあるが、まだ安定している訳じゃない。
いつ、店の経営が左前になるかもしれない。住み込みの職人や弟子たちも抱えているし、彼らの食い扶持を賄っていかなければならない。
私には、それにもうすでに3人の子宝にも恵まれている。
もうこれ以上は育てていく自信はない、と言っていた。
診察が終わった鳥越先生に、「先生、もう三人子供はいます。これ以上はいりませんし、生活も大変だし、産みたくないのですが。」と言ったそうだ。
鳥越先生は一瞬考えてから、おもむろに口を開いた。「奥さん、子どもは何人いてもいいもんだ。きっと後から産んでよかったと思うから産みなさい。」と諭された。
それでも産むことに悩んでいた芳子は、次の診察日に、「先生、やっぱり産めません。」と胸の思いを訴えた。
しかし、鳥越先生は「子どもはあとできっと役に立つ、生活は何とかなるから、なんとしても産みなさい。」と、芳子に同調しなかった。
昭和31年11月24日誕生。初めての病院での出産だった。
またしても男だった。
私は芳子のお腹の様子からてっきり女だと思っていて、女の子の誕生に期待していた。
しかし結果は男。
ガッカリして、母トメに、「また男じゃった。」と、結果を伝えに行ったら、トメは毅然として「女が命をかけて産んだ子どもにそげなことを言うもんじゃない!」と、一喝された。
小学1年だったさよ子も私の話を聞いていて、学校の先生にも「今度、妹が産まれる。」と喜んで話していたという。
さよ子にはかわいそうな事をしたが、それは仕方のない事だ。
4番目の孫の誕生を見届けたかのように翌日、母トメが急逝したのだった。66才を2ヶ月過ぎたばかりだった。
こちらでは葬式の準備に忙しくなり、葬式で使う茶碗、皿などの食器の準備が整わず、芳子にトメの死を気づかせないように、病院に入院している芳子に食器の場所の確認を住み込みの弟子たちに行かせるも、要領を得ない。
そのうち様子がおかしいと気づいた芳子から問い詰められて、トメの急死を白状した事で、芳子が動揺したのだった。
生後のバタバタで、名前の案も思いつかないでいたら、店のお客さんで市役所職員の馬渡さんという方に「まだ名前が決まらん・・・」と呟いたら馬渡さんが、「三人目の男でしょう?三人で留めるで三留(みつる)はどうでしょう?」という事で決まった。
母トメが亡くなって生まれ変わりだとすれば、トメるという文字が入るのも悪くなかった。
さよ子の小児まひの後遺症は10才、小学4年になって手術する事になった。
手術は今までの経緯から上村外科の上村先生に頼む事になった。
上村先生は技術能力は最高なのだが、軍医上がりで少々荒い。
そして何よりさよ子が上村先生を怖がっていた。
それは上村先生は非常に子ども好きで、好きが高じてたまに子どもをつねったりするので、子どもには評判がすこぶる悪かった。
しかし、手術の技術は素晴らしいものがあり、さよ子の手術はほかの先生は考えられなかった。
手術が終わって、先生から聞いたことだが、手術は局所麻酔で行うもので、さよ子は自分の手術を見たいがために「先生、見えん(見えない)、見せて。」と、手術中に言って聞かないので、目隠しをして手術をしたそうだ。
先生いわく、「この子は違ってる、普通は怖がってしまうのに見せろ、というのだから。」と驚かれてしまった。
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