最終章
私の戦後が始まった
今まで苦労をかけた母トメを、これから養っていかなければという思いを夏江を失って強くしていた。
さあ、これからどうしようと思いあぐねても、やはり元の靴職人に戻るしかなかった。
そう思ったら、私が靴職人の世界に入ったきっかけであり靴職人の師匠筋にあたる叔父の瀧男兄(あん)さんに会って話してこようと、脇園に向かった。
あんさんはトメの末弟だったが、年齢が5つしか違わず小さい頃から叔父さんとは呼ばず、あんさん、あんさんと呼んでいた。
学校を出てから、あんさんの店で靴を作る修行をしていて、満州に渡るまで靴職人として夏江とふたりで生活していた。
あんさんの屋号は「つるみや」といった。
私の靴つくりは、つるみやから始まった。
脇園に着いてから「あんさん、帰ってまいりました。」と挨拶すると、ハンマーで靴底を叩いていた手を休め、私の顔を下から見上げて、やっと私に気づいたのか神妙な顔をして「深志か、よくぞご無事で、ご苦労様でした。」と敬語まじりで答えてくれた。
「ワイ(お前)も満州からシベリアじゃったか?」
「うん。満州で武装解除になって、そんまま蒙古やった。森林伐採やらレンガ作りやったり、一生分働いたかも。メシも少なして(少なくて)。」
「そいで深志はこいからどげんすっとか?(これからどうするのか?)」
「また靴を作ろうち、思っちょ(作ろうと思ってる)。」
「そいがよか(それがいい)。」
「ただ言うとくけど、シベリア帰りち、あんまい言うな(シベリア帰りとあまり言うな)。」
「なんでな?」
「シベリア帰りは”アカ”(共産主義者)じゃっち言わるっから(言われるから)。」
無性に腹が立った。悔しい気持ちでいっぱいだった。
好きでシベリアくんだりまで行った訳じゃない。死んだ仲間もたくさんいた中で、お国のために戦ってきた。
その挙げ句の果てに辺境の地に連れて行かれ、命からがら帰ってきて、今度は”アカ”呼ばわりか、とやるせなかったが、あんさんは良かれと思って言ってるんだ、と思い直して「わかった。」と答えた。
靴つくりの工程というのは、元々1足の靴を作るのに、一人ですべて作るのではなく、甲革と底付けの分業制になっている。
つまり、足を包む上側を作る人と、底を作る人と、分かれているのだ。
甲革師が作った部分を、底付け師が靴底と合体させるのである。
私も底付け師であったし、靴の修理はほとんど靴底の修理が多いので、底付け師が主に担うのである。
終戦後2年経っていた社会は、軍服に軍靴を履いていた男達も、そろそろ靴にボロが出始め、新しく靴を新調しようとする人々が現れ始めていた頃だった。
私は、甲革師と底付け師を一人でやれるんじゃないかと、つるみやに居ながら甲革の事も覚えようとした。
甲革師の腕の見せどころは、同じ形をしていない一枚の牛革から、いかに無駄なく靴の部分の革を裁断できるか、無駄にすればそれだけ儲けが減るからだ。
こういった事を学びながら、戦前とは違う戦後の靴屋を始めようとしていた。
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