物語「約束の地」ー戦争を経験した父の人生ー⑱

2024年
「待望の乗船」 吉田勇絵画集 

第9章

次に人民裁判が始まった。

 船に乗りこむ前に、人民裁判が始まった。対象は兵卒の犯罪だ。

 最下級の身分にある兵卒同士が、何かやったところで殴り合ったとか、パンの切り方を自分だけ厚くしたとか、たかが知れている。

「人民裁判」吉田勇絵画集

もうここまで来たら、憎みあったこともなかったことになるくらい、終わったことだった。

 長時間にわたる人民裁判の終わりに、「当法廷はここにすべての者の勇気と誠意に免じて、特別に定員五十名の告発と謝罪が終わった。只今より乗船を開始する。」と指導員が発した時に、どっと歓声が起こった。

 最後に、全員が赤旗の歌を合唱して、スターリン元帥閣下万歳を三唱して、最後の審問と民主教育は卒業した。

 要するに、立派に民主教育を修了した我々に、今度は民主日本の建設とスターリン元帥のために働け、と、こういう事だった。

 最初の乗船の三千人が一艘目いっそうめに乗り込む。そのために行列がしばしば止まった。

 乗り込みが終わると、二艘目の船が岸壁に入れ替わるのに、また時間がかかり、我々の乗り込む最後の三艘目まで順番が回ってくるまでには、果てしなく待たされた。

 そんな中で、ずっと心に秘めていた思いが頭をもたげてきた。

 鞍山においてきた夏江の事であった。

 鞍山の終戦はどうなっただろう、政盛と避難しただろうか、結核の状態はどうだろう、政盛が一緒だから大丈夫なはず、といろんな事が頭をよぎった。

 今までは我が身を案じるのに精一杯で、いまやっと人間としての思いやりを感じるようになってきた。

 そして、やっと夏江のことを案じ続ける事の出来なかった自分の不人情さを恥じた。

 ここまで来てほかの満州召集組の連中も、口々に残してきた家族の事を言い始めた。

「おれの母ちゃんは、大連から逃げ帰れただろうか?」

「新京は、いまどうなってるだろうか?」

「奉天は?」「ハルビンは?」など、みんな満州に残っていた家族、身内の心配を語り出した。

 私は川内に帰り着いたら、真っ先に田崎の両親のもとへ行こう、そうすれば夏江が待ってると思った。

 最後の一艘に乗り込むために整列している私の後ろのはるか向こうに私は松崎君を見つけた。

 お互い目配せして、帰る喜びをかみしめていた。

 乗り込む行列が前に進むにつれ、船体に書かれている船名がはっきり見えるようになってきた。

英彦丸えいひこまる」だ。

日の丸の旗と、日本の文字で大きく書かれた船名が、本当にありがたく、頼もしいものに思えたのだった。

 やがて全員が乗り込み、抑留者が甲板に立っていた時に汽船は静かに動き出した。

 船が陸から離れた瞬間、「スターリンの馬鹿野郎!」「天皇陛下万歳!」「大日本帝国万歳!」と叫ぶ者が現れ、岸壁に立っている民主聯盟員に向かって「てめえらが日本に帰ってきたら、ただじゃおかねえぞ!」と叫ぶ者もいた。おそらく声は届かなかっただろうが・・・

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