第九章
祖国への帰還の第一歩
10月10日に大量のトラックがラーゲリに入ってきた。
その数は何百台だっただろうか。
1台のトラックに50人ずつ乗せられた。
みんな不安の中、これからどうなるのか、訳もわからずもうどうにでもなれと、諦め切った者もいた。
すべての捕虜をきっちり乗せるのに夜までかかった。
トラックは、夜の街を背に長い時間停まらなかった。
車列は長く、前後の端が見えないほど続いていた。
トラックはしばらく走ると、ウランバートル市内を離れて砂漠の土の平らな平原を突き進んで行った。
「どうやらゴビ砂漠らしい」と、先生あがりの一等兵が説明していた。
どうも帰還出来るんじゃないかと、誰ともなく言い始めた。
そう思うのも無理はなかった。
今までなかった長距離移動である。
だがたまたま希望的観測を述べると、それを打ち消す説が出てくる。
今まで何度も騙されてきた経験から、当てにして外れるより当てにしない方が当たった時の嬉しさが増大すると思うようになっていた。
モンゴルの10月は、秋も終わっていた。
しかも夜は、0度を下回る冷たさだった。
とにかく凍傷になる事が心配だった。
これまで何人も凍傷で手足を切断したり、命を落としてきた仲間を目の当たりにしてきた。
もし帰還できるのであれば、こんなところで凍傷なんかになりたくなかった。
4、5時間ほど過ぎてやっとトラックは停車した。
今まで溜めに溜まった小便も、皆一斉に荷台から降りて道路端やあぜ道のようなところでも構わず排出した。
そこでは夜中だったが、食糧の配給があった。
一人、四分の1ずつのパンが回った。そこでは枯れ草などを火にくべて、やっと人々の顔が見て取れた。
「なんだ、お前がいたのか。」
「これからも一緒に行くぜ。」などの安堵の声の中、少し離れたところに、松崎君の顔が見えた。
「こんトラックじゃったか?」
「深志もこんトラックじゃったと?」
「一緒で良かったが。」
と、お互いの無事を喜びあった。
トラックにはちょうど50人乗るように指示があり、それは「49でも51でも良くない、国境を通れないぞ。」と特務らしい人物からの帰還の通告でもあり、うれしさが実感となってきた。
モンゴルの国境はナウシカというところであり、我々はそこから有蓋貨車(屋根付きの貨車)に乗り込んだ。
そこからシベリア鉄道で二十車両の編成車両が、祖国へ向かう事になった。
夜が明けて、窓から青いバイカル湖が見えて、それは海と同じで水平線の先は見えなかった。
前に見たバイカル湖とは違って美しいものに見えた。
帰れるという心の余裕からくるものだっただろう。
これまでの二年間はラーゲリと作業場以外、どこも見たことがない我々は、
「広いんだなあ、バイカルって。」
「船も人も全く見えない。すごい国だな~。」と、心に余裕が出てきて人間らしい会話になっていた。
時々一斉に止まって、パンや水が届けられたが丸二日間、一台も反対方向に向かう列車に会わず、一方通行で走り続けた。
ウランデというところで、待機線(複線になってるところ)に入り我々の列車は動かなくなった。
停車中は用便や、飯盒の炊事、軽い運動などは許された。
ここで丸三日間動かなかった列車の集団は、やっと線路が空いたようで四日目の昼に走り始めた。
我々は帰国の希望に加え、過酷な仕事のないのんびりとした時間を過ごせた。
この列車旅も十日を過ぎると、我々捕虜も穏やかになってきた。
人間らしさを取り戻したというか、「ありがとう。」とか「ちょっとごめん。」などが自然に口に出るようになってきた。
しかし、ハバロフスクまで行かなくては終点じゃない。
モンゴルの国境を越えてシベリアの長い旅の時間が過ぎた頃、急に列車のスピードが落ちた。
そしていよいよ落ちたスピードは停車しては走り、また停車するといった先に進むのを阻むような走りになってきた。
心は祖国に向いている我々も、イライラするようになってる時に、「港へ、1万6千人もの大量の人間がいっぺんに到着すると、乗船するのに混乱するから時間を調節しているはずだ。」と、情報に敏い兵隊が言っていた。
そんな話を聞いた我々は、さらに希望が湧いてきた。
線路の上り下りが終わり、平地に入ったとき列車はガタンと止まってしまった。
外を見てみると前に線路はなく、明らかに終点だった。
ひとりが「潮の香りがするぞ」と言って外へ飛び出した。
私も彼に続いて飛び出して潮の香りを吸い込んだ。
海は見えなかったが、かすかに波の音が聞こえた。
そんな我々の前に、トラックがやってきてマンドリン(機関銃)を構えたソ連兵に守られている人民労働服を着た日本人がやって来て、大声で「こらっ、貴様らは何たるざまか!」と怒鳴り出した。
「神聖なる我らの祖国シベリアの大地に、貴様たちは道々糞垂れながらやってきた。」
それは仕方あるまいと思っていると、「これまで食べさせてもらい、住まわせて貰った恩を感じている者はひとりもおらんのか!」
「こんな物くっつけているようでは、またシベリアに逆戻りだ!」と、ひとりの兵隊の襟についていた階級章をむしり取って、足で踏みつけた。
この出迎えには度肝を抜かれたが、彼らの右腕には「民主聯盟」と赤地に白く染め抜かれその下に「指導員」と書き加えられた腕章が巻かれていた。
彼らは我々に怒号の連呼で「すぐ車内の掃除にかかれ!もしこの中に埃一つでも残っていたら、全員連帯責任で蒙古共和国へ帰ってもらう!」と、脅しとも取れる言葉のあと、指導員全員で「スターリン元帥閣下万歳!」を唱え、桟橋の方へ去って行った。
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