第8章
モンゴルでの強制労働
ソ連から外蒙古の中継地であるスフバートルを経由して、軍用貨車に詰め込まれ、モンゴルの首都ウランバートルに到着したのが、12月8日だった。
そこは砂塵舞い上がるゴビ砂漠の一角で、しかも氷点下30度〜40度の極寒の地、まさに生き地獄とはこのことかと思ったのだった。
ラーゲリと呼ばれる宿舎に着いてからも我々が日本に帰れるのかも何一つ情報は得られず、家族との音信は一度も出来なかった。
食糧も箸もスプーンも使わないおかずのない朝食をすすり、昼には決まった少量の黒パンだけでただただつらい日を過ごしたが、翌年1月12日には、ウランバートルから西南に30キロ以上かなたにある“ボンボト”という場所で木材の伐採の使役に従事する事になった。
この頃は、季節的にも寒く、零下50度くらいまで下がることもしばしばであったが、ラーゲリの建物は老朽化した木造二重張りの防寒構造だった。
各部屋ペチカ1個配備、内部は鉄パイプで天井高い部屋で丸太材をそのまま挽いたノタ付板を並べ、その上に日本軍の毛布を一枚敷いただけ。
一人当たりの広さは高さ1メートル、長さ2メートルのみだった。
作業日程は、毎朝7時作業前の整列。吹き抜けてくる寒風は持参の常用外套(コート)と通常の編み上げ靴だけでは、底からじかに冷たさが伝わってくるので足踏みして耐えるよりほかなかった。
出発に際して人員点検に毎日手間取っていた。あまりの寒さに耐えかねて蒙古兵の手際の悪さを誰かが「ロスケ(ソ連人に対する蔑称)は10以上は数えられん。」と口走った。
その声が聞こえて悪口を言われたと思ったその蒙古兵は、並んでいる我々に銃口を向けて怒り狂ったように何やら喚きながら、空に向けて2発発砲した。
この時ばかりは殺されると思った。
一瞬のうちに走馬灯のように小さかった頃のことや、川内の家の中でカカどん(お母さん)と末廣の姿が蘇ってきた。
あとで、人は死ぬ前にはこんな思いをするんだな、と確信した。
蒙古兵は結局、何度も数え直しても正確な数も把握できないまま出発となる。これがほぼ毎日の朝の日課だった。
現場の森林地帯に到着すると、すぐ作業開始の号令があり直ちに集合して伐採、道路工事、建物の基礎工事等に分かれた。
私は森林伐採の作業をすることになった。これが抑留捕虜労働の第一歩だった。
二人で押し引きして白樺の大木を切るノコギリを持たされ「エッサ、ホイサ」と掛け声をかけつつ大木を切っていく、しかしそう簡単に切り倒せるものじゃない。
そうやって伐採した木材の搬出や積み込み作業が多かったが、ちょうどその頃軍隊の階級章を全部外す事になった。
階級の隔たりなく作業をするためだったようだ。
伐採した木材を馬そりに乗せてトラックの搬出所まで送り出し、そこからトラックに積み込む。五、六人一組だったように思う。
二人でロープを使って巻き、三、四人が肩を入れて押し上げ、戻らないように両方にくさびを構えつつ、ヨイトマケ、ヨイショ、ヨイショと掛け声をかけつつ、直径5メートル以上もありそうな原木丸太を積み込むのだった。
この仕事が終わるまでは食事は与えられず、空腹でフラフラになっていた。
これが「ノルマ」というものかと思った。三人一組で伐採六石(1石は10斗、または100升、1000合)が一日のノルマだった。
我々の班も交わす言葉は「腹減ったなあ」「寒い」「きつい」などくらいで、空腹と疲労で言葉を交わすのもままならないようになっていた。
このような作業は一か月ほど続き、収容されているラーゲリで栄養失調や凍傷で負傷者や死亡者が続出するようになってきた。
亡くなった人の姿は、あばら骨がまるで洗濯板のようで、本当に骨と皮だけになっていた。
自分もそうであったが、班は違えど同じラーゲリに収容されていた松崎君も同様だった。
松崎君は昼も夜もフラフラと仕業に就いているだけで、まったく精気はなく森の中の雪の上でほとんど眠ってしまいそうな様子だったのを見て、「眠っちゃいかん、起きろ、起きらんか!」「・・・」「起きらんか、寝たら死んでしまうぞ!」と何度も声をかけ、頬を手袋をつけた手で叩いて目を覚まさせて起こす事もしばしばあった。
ほかにもこのように雪中にへたり込んでしまって、そのまま亡くなった仲間もたくさん見てきた。
次のおもな作業は鉄道専用の枕木の貯木作業だった。製品化された枕木を一ヶ所に集めて千本積み上げる果てしない作業を五人一組で一人が百五十本ずつ、しかしこの作業は半分ほどしかできずに日々のノルマが達成できないので、食糧がそのたびに減らされてさらに能率が上がらなかった。
ノルマが達成できない、食糧が減らされる、体力がなくなるので、さらにノルマが達成できない、というふうにどんどん悪い方へ続いていった。
そのことで仲間割れも起こり、弱っている兵隊に「お前が仕事が出来ないから、達成出来ないじゃないか!またメシが減らされるんだぞ!」と罵声を浴びせる者もいた。
それにこたえられない弱った兵隊は涙を流して、ただ申し訳なさそうにうつむくだけだったが、そのようにいくら罵倒したって、ノルマは達成できるものではなかった。
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