女性たちの記録集「それぞれの100年」から No.10 最終回 『中国在留邦人のこと、相星雅子さんのこと』

2024年

中国残留邦人のこと、 相星雅子さんのこと  小川みさ子

 作家、相星雅子さんは、1996年から2019年3月にお亡くなりになるまで23年間、私の後援会「小川みさ子と仲間たち」の後援会長をつとめてくださいました。
きっかけとなったのは、1991年湾岸戦争で日本が多国籍軍に対し、90億ドル(日本円にして1兆2000億円)を追加拠出したことに対し、巨額の戦費支援に反対と、即時停戦を訴え、ハンストを決行した私と友田良子さん(当時・社会党の出水市議)は、次いで、湾岸戦争時のブッシュ大統領の戦争犯罪を問うため、ラムゼイ・クラーク元アメリカ司法長官の呼びかけで、ニューヨークで開かれた国際戦争犯罪法廷(クラーク法廷)に参加。

 同時に90億ドル支出、平和的生存権に対する侵害、海上自衛隊の掃海艇派遣の違憲性を認めるように、国を相手取り鹿児島地裁に提訴。その公判の傍聴に相星雅子さんが足を運んで下さった時、後援会長を快く引き受けて下さり、平和への思いを共に活動させて頂きました。

 私の活動する中国残留孤児(後に中国残留邦人と呼ぶ)支援についても、心を寄せてくださったのが、相星雅子さんでした。

 敗戦による満州国の混乱時に肉親と生別、死別した幼い子どもたちの多くが、中国人養父母に育てられました。その後、1972年(昭和47年)の日中国交正常化に伴い、幼くして肉親と離別し、成長した孤児たちの帰国が相次ぎました。地元紙一面に鹿児島の帰国者たちがズラリ並んで報道され、鹿児島での暮らしが始まりました。2003年8月、敗戦前後の苦難、取り残された中国での暮らし、あこがれた祖国日本での暮らしの困難さと失望を弁護団18人が聞き取りを行い、鹿児島地裁に国家賠償請求の訴状を提出されました。

 鹿児島訴訟原告代表の鬼塚健一郎さんたち当事者と、彼らを支える県民の皆様と交流する中、日本語をほとんど理解できない帰国者たちに通訳、日本語を教える姶良市の山下千尋さんとも知り合いました。

 行動を共にし、今は施設暮らしの鬼塚健一郎さんは、常に国会に対して怒りを訴えておられました。と、いうのも、国の侵略により自分たちの運命は狂わされた・・・その補償をなぜ裁判までして訴えなくてはならないのか?もっともなことです。

 これらの永住帰国者2000人による訴訟は、2006年、国の「中国残留邦人」政策に対し、無策を指摘し、真の救済を迫った判決が下され、神戸地裁で初めての勝訴。「裁判で国に対する勝訴判決を得て、その責任を明確にしたうえで、孤児に対する戦後の政策の転換を実現しようとする法廷内外で一体として戦う裁判闘争」であると弁護団全国連絡会は、評しました。神戸地裁はそうした事情を認め、国に総額約4億6千万円の支払いを命じだと報道。

 鹿児島は、訴訟外での交渉でより迅速に解決する方向で和解となったものの、生活保護同等の生活支援に国の戦後補償、責任はどうなっているのか、スッキリしない気持ちが残りました。その後、鬼塚さんがグループホームに入所、コロナ禍で細かな情報を得ることができまでした。 

 そんな中、中国在留邦人の方々が日本に戻られ、建立した中国人養父母たちへの感謝の石碑があることなどのお伝えが届きました。そして、昨年、2023年10月に日中平和友好条約45周年を記念する「友好・平和二胡コンサート」に、二胡奏者の劉福君「リュウ・フジュン」先生が、中国在留邦人の方々を招待下さって、私も同行させて頂きました。日本語指導をされてきた山下千尋先生もお誘いして再会でき、昨年のうちに面会謝絶であった鬼塚健一郎さんを訪ねてくださいました。

 二つの祖国を持つ鬼塚さんたち中国残留邦人は、敵国の自分たちを育ててくれた養父母に逢いたい、墓参りをしたいと願っても生活保護同等の生活費で中々叶わず、私たちが寄付を集め実現できたことがありました。

 鬼塚健一郎さんの呼びかけのもと、中国残留邦人を育ててくれた養父母への感謝を示す石碑が、2014年(平成26年1月23日)、県と市の日中友好協会の協力のもと、鹿児島市内に建立されました。感謝の碑が1985年に中国、長沙市と鹿児島市の友好姉妹都市を祈念し、遠く離れているけれど、「両市民が同じ月を眺め、友好を深めよう」という意で名付けられたあずまや「共月亭」の横に建立された意味も大事だと思っています。

 鬼塚さんは、残された私たちは、もし中国の養父母たちが引き取ってくれなければみんな死んでいた。「異国の孤児に救いの手を差し伸べてくれた恩を忘れてはいけない」と、除幕式での鬼塚さんの言葉は、平和を創る私たちにとって貴重で重いメッセージで心に響きました。

 中国残留邦人、配偶者、2世の高齢化も進みます。「中国残留邦人等の円滑な帰国の促進並びに永住帰国した中国残留邦人等及び特定配偶者の自立の支援に関する法律」に基づいた、日本社会における生活の安定を構築するための公的な各支援を改めて精査して不備を糺していかねばと、改めて思います。

 ちなみに鹿児島市議会においては過去5回、中国残留邦人の給付制度などについて、本会議で質問を重ねてきました。鹿児島市  平成22年第2回定例会(6月)  06月17日-02号

会議録表示

 そして、訴訟に関わった小栗実鹿児島大学名誉教授(憲法担当)の報告を受け、「中国残留日本人孤児」国家賠償請求・鹿児島訴訟の記録の以下の言葉に感銘を受け、あるべき姿を胸に刻んでいるところです。

『原告・弁護団・支援者の三者の協同によって成果を勝ちとったが、とくに弁護団の奮闘がもっとも革心的なものだった。ここに敬意を表したいと思う。この訴訟は、「政策形成訴訟」とも呼ばれる。その無責任さ、不十分さ、人権侵害の深さを訴訟を通して、世論に訴え、訴訟で勝利し、政府の政策自体を変更させ、生活・人権の充実を図る憲法裁判運動であったと私は思う。残留孤児訴訟では、勝利判決は神戸地裁だけだったとはいえ、上述の全国各地の判決の分析でふれてきたように、国の政策変更を求める内容を含んだ判決を生み出し、国の「中国残留邦人」政策を根本から改めさせることになった。』

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