女性たちの記録集「それぞれの100年」から No.4『私が聞いた父からの話』

2024年

父から聞いた話   N・S

 父は、1928年生まれ。8人兄弟の上から3番目で、長男。実家は南薩で小作農でした。
父の目標は、高等小学校から師範学校を経て、学校の教員になることでしたが、世の中の流れに流されてしまい、予科練を受験し、当然祖父は猛反対し、最後までハンコを押さなかったそうです。

14歳で当時、鹿児島市にあった海軍航空隊に入隊し、17歳で敗戦。
戦後は、実家で農業の手伝いをしたり、会社員として働いたりしながら、49歳で病死しました。

今になるともっと父からいろいろなことを聞いておけばよかったと思うことばかりです。
そんなことがあったので、ケアマネジャーになって、父と同世代の方たちから戦争体験を聞いていたのだと思います。

◎私が聞いた事

・父の小学校時代は、クラスで成績が1番、2番の子供は予科練を受験するよう先生から勧められたそうです。

・戦後、謝罪に来た先生が1人いたと聞きました。

・叔母(父の妹たち)によると、戦争中に祖母と一緒に面会に行ったことがあるが、帰りに砂糖などの当時配給ではなかなか手に入らないものが手に入ってうれしかったと。

・戦後の農地解放時に、予科練除隊時にもらったお金で、日当たりの良い田んぼを買うことができたと、何回か父や祖母から聞いた。

・戦後、警察から勧誘があったが、親戚の警察官に相談したところ、「警察は学歴社会だから小学校卒のお前はやめたがいい」と言われ、断ったと。

・戦後、自衛隊ができたときはしつこいくらい勧誘があった。父は、二度と武器を持ちたくないと思い、断ったと話してくれた。・・・・自衛隊のテレビを見ているときに話しをしてくれたと覚えている。

・弟が14歳の頃、「俺は14歳で予科練に行った。こんなこどもだ。おやじがハンコを押さなかったのが判る」と弟の顔をみながら、つぶやいたのを思い出す。

・予科練での事はあまり聞いていませんが、ショックだったのは次の3つ。

◎飛行機で何回か沖縄まで偵察に行った。

◎自分は長男だから、特攻は後回しになった。次男、三男の人は特攻に行った。

◎敗戦があと3ヶ月遅かったら「自分は死んでいた。」これは、真顔で言った。

「自分は特攻で死んでいた」、の言葉を聞いたときは、まだ中学生でしたが、「もしかしたら、生まれてこなかったのかも・・・・」と衝撃を受けました。

父親は、22歳の時に亡くなったので、残念ですが、これだけしか聞いていません。

ケアマネジャーやMSW(メディカルソーシャルワーカー)の時には、多くの特攻体験者やご家族にお目にかかりました。県内には、特攻関連の施設がありますので、特攻の体験者、ご家族はたくさんおられると思います。ぜひ、その方々の体験、心情を聞き取って、いただければと思います。
父の世代の方は、生存でも96歳です。早い聞き取りをお願いします。

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