「鞍山(アンシャン)」~私の知らない父の妻、ナツエさんに捧げる物語~ ⑧

2024年

満州での日々

 満州の2月は最も寒い季節です。近所にある睦ヶ池は一面氷が張りつき、そこでスケートをするのが庶民の楽しみらしいのです。

深志さんは、スケートは会社の人間とそこそこ興じていたらしく、私にもスケートの面白さを話していたので、スケートに行ってみたいと、私も思っていたのでした。

ある日の夜、「今度、スケートに行かないか?」と深志さんから誘いを受けたので、「行ってみたいけど、靴も持ってないし・・・」「靴は俺も借りてるし、お前の分も借りられる」ということでした。

早速、次の日曜日にスケートに行くことになりました。
その時深志さんが借りてきた靴が十文(24センチ)しかなくて、九文半(22.5センチ)の足の大きさの私には少し大きかったのです。

厚い靴下を履いて何とか間に合わせることができました。
深志さんはロングといって刃の長いスピードスケート用のスケート靴でそこそこ上手に滑っていました。

私はショートといって刃の短いスケート靴を履いて氷の上に立とうとしますが、立つこともなかなかうまくいきませんでした。

 そこで深志さんが「足を八の字にして、歩くようにしていけば滑れるようになるから」とさんざん教えてくれましたが、転ぶことが忙しく、なかなか滑るというところまでは行きませんでした。

近くの大宮小学校の運動場も冬はスケート場になるのです。そこにも靴を借りられたときに、近所の友達と行ったこともありました。さすがの私も何回かスケートをするうちにそこそこ滑れるようになり、楽しいと思えるようになったものです。

 満州では、スケートができないと「もぐり」といわれる位スケートは生活の一部であり、主たる娯楽でした。私も自分のスケート靴が欲しいと思い、深志さんと一緒に奉天に行きスケート靴を手に入れることになりました。

 奉天の街は満州で最大の都市で、人口も100万人くらいいました。奉天の駅にも鞍山の駅前同様に、物乞いがたむろしていました。駅前には馬車(マーチョ)、人力車(ヤンチョ)が客を待っているのです。
満州の人力車は独特で二輪車より、一輪車が多く使われていました。

マーケットでスケート靴を手に入れた私たちは、鹿児島の人が経営している「ハトヤパン」という店があると言うことを聞いていたので、行ってみることにしました。

店に着くと「いらっしゃいませ」のうち「ませ」の発音が強くなる懐かしい鹿児島アクセントが聞こえ、二人で見合わせたのでした。鹿児島出身のご主人といろいろ内地の話、そして鹿児島の話がはずみ私たちはぜんざいを食べたのです。

甘いものが貴重な時代でそのぜんざいのおいしかったこと、忘れられません。

 満州の桜は、四月の終わりから五月の初めごろが見頃ですが、ここでの桜は咲き始めたらすぐに満開になってあっという間に散ってしまうのです。鞍山神社に植えてある桜の木も、その頃花をつけ始めますので、その頃から花見のできる季節になるのです。

ある日曜日、社宅の人々と花見の宴席に出席することになったのです。
周りの人たちから「瀬下さん、薩摩隼人だから飲めるでしょう?」と鹿児島人は酒豪という決め付けで酒をふんだんに勧められるのですが、酒に弱い深志さんはお猪口一杯で顔は真っ赤になる始末。

代わりに少しは飲める私がお酒のお付き合いをすることになるのです。
そういうわけで、深志さんはお酒の席はあまり好きではなかったのです。

 ちょうど花見の頃、社宅から近いところにあった鞍山で唯一の映画館「中央劇場」で李香蘭と小暮実千代が出演する、満映の映画「迎春花」を観に行ったのでした。

李香蘭の美しさ、そして奉天やハルビンの古い街並み、氷の祭典そしてロシア正教の教会など外を感じる美しい風景に感動したものでした。

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