「鞍山(アンシャン)」~私の知らない父の妻、ナツエさんに捧げる物語~ ④

2024年

出会い

 ある春の日、エッちゃんと二人で汽車に乗り、鹿児島に映画を観に行ったのです。
川内に比べれば、鹿児島は大都会です。市電も街を走り抜けています。
その時の映画は、小津安二郎の「学生ロマンス 若き日」でした。

二人の大学生が一人の女性を好きになり、スキー旅行に出かけるとそこに思いもかけず、その女性と出会い二人は張り合うのですが、彼女は、スキー部の主将とお見合いするために来たということを知り、がっかりすると言う学生たちをテーマにしたコメディー映画でした。
その頃の映画はまだサイレントと言って無声映画でした。

 その日、精一杯のおめかしをして行った私は、靴を履いていることをすっかり忘れて、いつもの下駄のようなつもりで歩いていたら、でこぼこ道の小石ににつまずき、靴の底を壊してしまっていたのでした。
たった一足の大事な靴を壊してしまったことで半べそかいている私をエッちゃんが、「修理してくれるところがあるから大丈夫。」と慰めてくれました。

 そして、私とエッちゃんは街中からバスに乗り川内まで帰ったのです。
竹之馬場近くで靴の修理をしてくれる所を知っていると言うので、そこを二人で訪ねて行ったのです。

 そこが、深志さんの靴修理屋で、私と深志さんとの出会いでした。

次には、父が永利村ながとしむら役場の人の結婚式に履いていく軍靴の修理を深志さんに頼みに行ったことや、何度か行き来するようになったことで、親しくなっていきました。
そのうち、深志さんが永利村役場に靴の外商に来るようになり、家にも寄って昼ご飯を食べたりするようになりました。

ある時、西開門の深志さんの家に遊びに行っていた時、お母さんのトメさんが、「深志ももうそろそろ、嫁さんをもらわないかん。あんたが来てくれると嬉しいんだけどね。」と思いもかけない言葉でした。

私は突然、「私でよければ・・・」と自分でも、どうしてこんなこと言えたのだろうかと、後から考えると驚いたのでした。でも、素直に、そう思えたのでした。

それまで家で農業や家事手伝いなどして暮らしていたのですが、「そろそろ、嫁に行く年齢(とし)じゃろ。」ということになり、二十四歳の時に、三歳年上の深志さんと所帯を持つことになったのです。

深志の決心

 昭和17年11月9日に入籍したのですが、その頃日本は昭和16年12月8日の真珠湾攻撃に端を発した太平洋戦争の真っ最中でした。強かったのは最初だけで17年頃は徐々に形勢は不利になってきていました。

物資が乏しく、靴を作るための革をはじめとした材料が手に入りにくくなり、靴色人として整形を立てられなくなるんじゃないかと深志さんは悩んでいたらしいのです。

 「同級生で国鉄の駅員をしている牛田君が、満州に行かないか?と、仕事の世話をしてくれるんだが。」と私に言い出したのです。

 それは、南満州鉄道の関連会社で、満州の鞍山(あんざん)【アンシャン】というところに「昭和鉄鋼所」という大きな会社があり、国策で軍の需要の鉄の生産が追いつかない程忙しいのだそうで、給料も内地の大体五割増で社宅も準備してあるということでした。

鞍山(あんざん)【アンシャン】は満州でも南部だから、気候は日本の東北地方と同程度だということでした。

 「本当に行くんですか?」と

念押しで聞いてみたら「行くつもりだ」と決心は固いようでした。新婚早々、商売がしづらくなった製靴・靴修理では新妻を食べさせていくことができなくなると悩んだ挙句出した結論でした。

五年くらい満州で稼いで内地に帰ってきて靴屋を始めれば、その頃は日本も戦争に勝っていて、安定した生活が送れるだろうと言っていました。

 昭和17年の11月の末でした。

すぐにでも満州に行きたい気持ちでしたが、ちょうどその頃、唯一の兄弟で、弟の末廣さんが身体を患い危ない状態だったので、すぐに渡満できる状態ではありませんでした。

 しかし、末廣さんは薬石の功もなく昭和18年11月14日午後11時、東郷の自宅で永眠したのでした。

深志さんはその時には母トメさんにかわり長男、喪主として、葬儀を執り仕切り立派に弟の野辺送りまで済ませたのでした。

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