7月24日(土)、かごしま市民福祉プラザで「昭和20年の鹿児島駅空襲を次代へ伝える・知る
~長田中学校の地域歴史研究から~』の会終了後、参加者で、鹿児島駅構内のホーム端に立つ慰霊碑へ向かいました。
鹿児島駅に向かう道中、当時の体験者の資料をもとに、爆弾が落ちた場所や体験者が逃げてかくれた橋があった場所などを説明しました。
参加者の中には、毎年、7月27日に、構内の慰霊碑にお参りに来られるKさんがいらっしゃいます。
Kさんは、当時2歳。鹿児島駅の空襲で17歳だったお姉さんを亡くされました。
男性の多くが召集を受け、出征していった中、女学校を出たばかりの10代の女性たちが駅の業務についていたのでした。お姉さんは、改札業務だったそうです。
Kさんは、「空襲や姉の記憶はありませんが、明るい人だったと聞いています。当時のことを持っと知りたいと思っています。」と話されました。
また、今回初めて参加された91さんの女性、Mさんは、ご近所の方に連れられていらっしゃいました。
Mさんは、父親が鹿児島へ買い出しに出かける朝、ケンカをしてしまったそうです。そのまま、父親は空襲に遭い、亡くなられました。翌日、リヤカーを引いて、駅まで家族と探しに行きましたが、遺体は見つからなかったとのこと。
「どうして、あの時、父親とケンカをしてしまったんだろう・・・・・」と、言葉を詰まらせながら、
話をされました。
長田中学校の地域歴史を学ぶ過程で、初めて参加した中学生のNさんは、「記憶を風化させないように、学んだことを周囲にも広めていきたい」と話していました。
【後日 7月27日】
鹿児島駅空襲から、76年目の7月27日、地域住民と遺族の方々が、それぞれの時間で、慰霊碑に花を手向けに来られました。鹿児島駅の駅長さんも、改札からホームへ案内しながら、遺族の方々と言葉を交しておられました。(写真は南日本新聞より引用)
お姉さんを亡くされたKさんが、「年を経るごとに、お参りに来られる方が減っている」とのつぶやきに、過去の出来事を語る人がいなくなっていく現実を感じました。
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